孤の螺旋 by近衛 遼 ACT1 昨夜の余韻がまだ、身の内に残っていた。 そろそろととなりを探る。思った通り、そこにはもう温もりの欠片もなかった。 幕の向こうに人の気配。が、それはあの男のものではない。 「逓」 英泉は近侍の名を呼んだ。 「お目覚めにございますか」 きっちりとした発音の、やや硬質の声が聞こえた。 「湯を」 短く、命じる。 「御意」 すでに用意していたのだろう。するすると幕が開き、近侍の青年が手水鉢と練り布を手に牀の側まで進んだ。作法に従い、視線は下に向けたままだ。 槐の国においては、臣下はあるじの許しなく顔を上げることはできない。もっとも、この天坐の砦ではそんな慣例などあってないようなものだったが。 湯を含ませた練り布を受け取る。逓は滑るような足取りで幕の外に出た。 「お召し替えの用意をしてまいります」 いつもながら、心得たものだ。 逓が控えの間に下がったのを確認してから、英泉はゆっくりと体を浄めた。 幾度めになるだろう。あの男と褥をともにするのは。 最初は父を失った直後。砦を与った重圧に押し潰されそうになっていたときだった。あれからもう半年以上たつ。 「と、まあ、子細は以上の通りですが……英泉さま?」 ずい、と、源宇が身を乗り出してきた。 「ご気分でも悪いんですか?」 訝しげな顔。英泉はあわてて、思考を切り替えた。いまは内々の軍議の席。余計なことを考えている場合ではない。 「いや。大事ない」 居住まいを正して、答える。 「それで、和の国からは正式な申し入れがあったのか」 源宇が報告した内容を改めて吟味しつつ、英泉は問うた。 「あったと言えばあった、なかったと言えばなかったんですが」 「なんだ、それは」 「なにしろ、九代目はタヌキですからねえ。なかなか腹ん中を見せてくれませんよ」 「それは、いまに始まったことではなかろう」 和王である九代目御門は、たいそう計算高い人物だった。もっとも外見は極めて柔和で、相手を喜ばせるようなことをいかにも本心からのように行なうので、たいていの人間はそれにコロリと騙されて、和の国に有利な条件でなにがしかの約束をしてしまう。あとになって、しまったと思ってももう遅い。なんといっても、一国の王との約束である。 こんな調子で、これまでに何人もの大使や特使が「自国に不利益をもたらした」として処分されている。幸い槐の国では、いまのところそのような不手際はないが、用心するに越したことはない。 「要するに、こちらが動くのを待っているということだな」 英泉は確認した。 「姑息だが、有効な策だ」 馮夷が低い声で意見を述べた。源宇はぼりぼりと頭をかいて、 「まあ、表向き、こっちから頭を下げてもいいんですけどねえ。それでこれまで通りに事が運ぶなら、安いもんです」 和の国は、槐の国が独立してからずっと、国境警備に係る物資の援助をしてきた。それは独立当時の密約によるものだが、その協定の破棄を主張する一派がいろいろと理由をつけて物資の輸出を遅らせているらしい。 六十年も前の協定を遵守する義務はない。彼らはそう考えたのだろう。既成事実を覆すには、新たな既成事実を作ればいい。その第一歩として、物資を差し押さえているものと思われた。 「対面がどうのこうのと言って、好機をのがしてちゃ本末転倒ですし」 「そうだな。では、当方から和の都に使者を立てよう。御上のお許しがいただけたらすぐに出立できるよう、準備を」 「御意。できるだけ行儀のいいやつを選んでおきますよ」 「なにを言っている。私の名代として九代どのに拝謁するのだぞ。おまえのほかに、だれがいる」 「ええーーーっ。俺ですか? そりゃムリですって。宮中作法なんか、とっくの昔に忘れちまいましたし」 「今日一日、逓を貸してやる。謁見の間での作法だけでも教えてもらえ」 「勘弁してくださいよ〜。名代なら馮夷に……」 「諦めろ」 隻眼の男が容赦なく断じた。 「おぬしの方が適任だ」 「おまえなあ、なにを根拠に……」 「陽源宇」 馮夷は源宇のフルネームを口にした。 「初代と縁戚であるおぬしのほかに、この大役が勤まる者があるか」 「ったく、もう、こういうときにだけ『六家』の名前を使うんだから」 「ほかに使いようがあるまい。とくに、おぬしの場合は」 「へいへい。わかりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば」 げんなりとした表情で、源宇が言った。 「さればその旨、御上に言上する。天呈に遣いを」 「御意」 馮夷は慇懃に、頭を垂れた。 天坐からの使者に対して、籐司は和の国への特使の派遣を承認した。返書は、例によってごく短いものだった。 『御身の筆のおもむくままに』 今回の件に関しては、天坐に一任するということである。 英泉はその返書を受けて、源宇を和の都に遣わした。身内の情報を漏らしてまで、九代目御門がなにを狙っているかは定かではない。が、和の国からの物資が途絶えるのは槐の国にとっては痛手である。 源宇が御門の真意を探り出せればいいのだが。 英泉は砦の物見矢倉から、はるか西の空を眺めた。晩秋の空気は澄み、山々の錦をよりいっそう鮮やかに見せている。 山が枯色になったら雪が来る。そろそろ冬支度をする時期だ。明日にでも蔵回りの者を里に遣って、当座の補給をさせよう。つらつらとそんなことを考えていると、 「申し上げます」 階段の下から、逓の声が聞こえた。 「なにか」 ゆっくりと階段を降りながら、訊く。 「源宇どのがお戻りになられました」 「わかった」 思ったより早かったな。 英泉は足早に広間に向かった。逓もあとに続く。広間の入り口には、煉瓦色の髪の男が立っていた。白濁した右眼と闇色の左眼が、無表情なままこちらに向けられている。 「馮夷」 なんとなくピリピリとした気を感じ、英泉は歩を止めた。 「なにかあったのか」 「九代どのに先手を打たれた」 「先手を?」 「悪くすれば、只働きだな」 「どういうことだ」 「いやあねえ、もう」 広間から、やや高音のよく通る声がした。反射的に、振り向く。 「なーにコソコソ話してんのよ」 ひょい、と扉の陰から顔を出したのは、源宇の言うところの「水鏡の姐さん」、如月水木だった。 「水木さん……」 「タダ働きはこっちの方よー。御影本部にもナイショの仕事なんだから」 色とりどりのメッシュの入った金茶色の髪を無造作にかきあげて、続ける。 「ま、あんたに会えるから、タダでもいいと思っちゃったんだけどね〜」 華やかな人は華やかに微笑んで、英泉の肩を抱いた。 |