浄罪 by近衛 遼 ACT2 槐王、籐司(とうし)は、薄い茶色の瞳を細めて英泉を見遣った。 「少しは、落ち着いたか」 やや高めの、張りのある声。英泉はまっすぐに玉座を見上げた。 「は。おかげをもちまして」 「堅苦しいあいさつは抜きにしよう。御許(おもと)と孤は従兄弟同士なのだから」 古来、槐の国において王は自らを「孤」と称する。それは、王としての責任はすべて一身に背負うという覚悟の現れでもあった。 「されど……」 「宜汪は、残念なことをした」 哀しげに眉を寄せる。 「かの『呪』は、『傀儡』の術を一定期間封じておくものであったと聞く。なんとかして解術の方法を知りたいものだが、いまのところ有力な情報はない」 「『傀儡』は宗の国の門外不出の術。かの国の者たちが、そう簡単に尻尾を掴ませるとは思いません」 「いかにも」 籐司は懐から巻物を取り出した。 「これを」 「は?」 「宜汪のものだ」 「父の……」 まじまじと、巻物を見る。 「去年の薬狩りのときであったか、孤にこれを預かっていてくれと言うてな」 薬狩りとは、五月の節句のころに薬草を摘む行事のことである。 「自分に万一のことがあった場合に御許に渡してほしい、と」 英泉は巻物を受け取り、その封を解こうとした。 「待て」 籐司が制する。 「ここで開封する必要はない」 「しかし……」 宜汪が籐司に託したのだ。目の前で中をあらためるのが礼儀だろう。 「父から子への形見だ。孤はそれほど無粋ではない」 籐司は微笑んだ。 「軍議は半刻のちだ。それまで下がっていよ」 心遣いが胸にしみた。天坐の砦の者たちだけでなく、籐司までもがこのような……。 英泉は深々と頭を下げ、御前を辞した。 軍議は、おもに宗の国に関するものだった。 いまのところ表立って対立しているわけではないが、宗の国が「呪」を使って槐の国を内部から潰そうとしているとわかったからには、それなりの防衛は必要であろう。 槐の国はかつて宗の国の属国であった。ちょっとでも隙を見せれば、ふたたび触手をのばしてくるのは目に見えている。 槐の国は国土のほとんどが険しい山岳地帯で、土地もそれほど肥えてはいないのだが、高低差に富んだ地形ゆえか、ほかではあまり見られないめずらしい植物が多く自生していた。薬草の数も並みではなく、宗の国の薬師の中には、他国では手に入らぬ薬草を求めて、年に一度は槐の国を訪れる者もいた。 南北にのびる天峰連山はまさに、自然の宝庫であった。宗の国だけでなく、周辺諸国があわよくば槐の国を傘下にと考えるのも頷ける。 昼すぎに始まった軍議は、日が暮れてもまだ終わらなかった。 連山に点在する砦の軍備の確認や、ふたたび「呪」が発動した場合の処置などが議題にのぼり、各地から集まった砦の司令官や軍師たちが活発に意見を述べた。砦の長となったばかりの英泉も、宗の国が江の国と密約を交わしている可能性があると主張し、天坐の拡張と新しい砦の建設を上奏した。 万一、天坐が江の国に握られたら、都は南北からはさみ討ちになる。砦の多くは連山の西側に配置されていて、天坐以外は連山を越えねば都に辿り着けない。これは槐の国が宗の国の属国であったときの名残りで、都の守備が薄いのもそれが遠因だ。 六十年ほど前まで、宗の国にとって槐の国は、和の国に対する盾であった。それゆえ連山の西にいくつもの砦を築き、にらみをきかせてきたのだ。 軍議は夜遅くまで続き、一同がそれぞれの房に引き上げたのは、日付の変わったころだった。 疲れた。 英泉は着替えもせずに牀に倒れ込んだ。 父親と同じ世代の軍師たちを相手に砦の配備を論じるのは、予想外に骨が折れた。英泉の提案は亡き宜汪が常々言っていたことで、反論は出るまいとは思っていたが、それでも「反対しない」のと「賛成する」のとは同義ではない。中には自分のことを「若造」と軽んじている者もいたし、「呪」の一件で同情的な視線を送る者もいた。 「父上……」 枕元に置いた巻物に手をのばす。 たったひとつの、父の形見。あのとき、父の屍はもちろんのこと、私物のほとんどが処分された。巻物を紐解き、再度、目を走らせる。 それは、複雑な暗号で書かれた上に術で封じられた薬物の処方箋だった。東原五州と称される宗、和、台、莫、彗の五大国とその周辺諸国から、南の離島や北方の氷の大地に至るまで、あらゆる場所のあらゆる薬物や毒物の資料。 これを私物化してしまってよいのだろうか。やはり籐司に献じて、薬師や医師に閲覧してもらった方がいいかもしれない。 父から子への形見だと籐司は言った。が、これは、槐の民への形見でもあるのだから。 巻物を元通りにして、英泉は立ち上がった。軍議が終わってから半時とたっていない。だいぶ遅いが、まだ籐司は起きているだろう。 そう思って扉に手をかけたとき、外から戸が開けられた。瞬時にうしろへ飛び退き、小柄を投げる。カン、と鋭い音がして、それは扉に突き刺さった。 「なんの真似だ」 首をかしげるような格好で小柄をよけた馮夷が、抑揚のない口調で言った。 「それはこちらの台詞だ」 英泉は突然の侵入者をにらみつけた。 「人の部屋に入るのに声もかけずに。それでは殺されても文句は言えぬぞ」 「わしの『気』ぐらい、とうに読んでいると思っていたが」 片方だけの黒い目が、こちらを見下ろしている。英泉は唇を噛んだ。 たしかに、わかっていた。自分が巻物の紐を解いたころから、この男が扉の向こうにいたことは。 間違いようのない気。昨夜のこともあって、それは英泉の中にくっきりと残っている。 「そのうえでこのあいさつとは、わしも低く見られたものだな」 馮夷は口の端を持ち上げた。 「それを、どうするつもりだ」 件の巻物を目で指して、問う。無言のまま通り過ぎようとした英泉を、馮夷の腕がさえぎった。 「御上(おかみ)なら、もう寝所に入っておられる」 見透かされている。英泉はかっとなって、馮夷の腕を払った。 「黙れ。これは私のものだ。私のものをどうしようが、きさまには関係ない」 「それで償えると思っているのか」 冷たい声。 「こちらを向け」 無意識のうちにそむけた顔を、ぐいっと掴まれた。至近距離に、無気味なほどに整った面がある。 「そのような甘い考えでは困る」 「甘い?」 「償いなどできぬ。永遠に」 馮夷は断言した。 「宜汪どのは同胞を殺した。おのれの意志ではなかったにせよ、その事実は変わらぬ。おまえがなにをしようと死者は生き返らぬし、わしの目も元には戻らぬ。これが現実だ」 「わかっている!」 悲鳴に近い声で、英泉は叫んだ。 「そんなことはわかっている。だから……」 自分など八つ裂きにされてもいいと思っていた。皆の怨嗟をすべてかぶって。 「なまぬるい」 ぼそりと、馮夷は言った。 「だから、罰してほしかったとでも言うつもりか。罰を受けて、それで自分が安心したいだけではないか。結局は許してほしいのだろう。上に立つ者が、情けない」 馮夷は英泉を室内に押し戻した。そのまま牀に突き飛ばす。 「なにをする!」 「わしは昨夜、おまえに触れた。おまえは拒絶しなかった」 たしかにそうだ。そして、それでもかまわないと自分は思った。だが……。 のどを掴まれ、乱暴に帯の結び目が解かれたとき、本能的な恐怖が全身に走った。 「見ろ」 自分を組み敷いた男の声が降ってきた。 「その目にしっかりと焼き付けておけ。おまえが一生、背負っていくものを」 白く淀んだ右の眼が、まるで見えているかのようにこちらに向けられている。英泉は、目を逸らすことができなかった。 はじめての感覚に、五感のすべてが過敏に反応している。 馮夷は容赦しなかった。深い口付けと執拗な愛撫が英泉を追いつめていく。 「は……あ…っ……」 声が抑えられない。目を閉じることもできない。いま自分がどういう状態なのか、いやでも思い知らされる。 両脚が広げられ、その場所に馮夷が侵入してきた。強烈な圧迫感。 苦しい。息ができない。足先が痙攣を起こしたように、小刻みに震えていた。えぐるような痛みが背中から脳天に突き抜ける。ずり上がろうとする体を、馮夷の手ががっしりと押さえ込んだ。 何度も何度も衝撃が走る。目の前がだんだんと銀色になる。 すぐそばにあるはずの馮夷の顔が、妙に遠くに感じたとき。英泉の視界は暗転した。 遠くで聞く蝉時雨のような、あるいは針葉樹の森に吹く風の音のような。 耳の奥で、なんとも不思議な音がする。夢とうつつのあいだをいくたびか行き来して、英泉はようやく意識を取り戻した。 外はまだ薄暗かった。そろそろと頭を巡らせると、長椅子に馮夷がすわっていた。 「起きたか」 いままで閉じられていた目が、ぱちりと開いた。 「まだ早い。もうしばらく寝ていろ」 「馮夷……」 起き上がろうとして、英泉は顔を歪めた。全身のいたるところが、先刻までの行為のあれこれを主張している。 「昼までここにいてよい」 言いながら、立ち上がる。 「午前中の軍議には、わしが名代として出席する」 淡々と告げて、馮夷は房を出ていった。 昼までここにいてよい、か。 英泉は息をついた。たしかに、これでは軍議どころではない。横になっていてもこんなにダメージがあるのだ。長時間、すわってなどいられまい。 そこまで考えて、英泉は急におかしくなった。馮夷は「昼まで」と言った。ということは、午後には通常通りの仕事をしろというわけか。 なるほど、たしかに甘くない。 英泉は目を閉じた。眠ろう。少しでも、体を休めなければ。 昼まで。それまでちゃんと眠って、昼餉をとって、午前中の軍議の内容を検討して。 薄い朝日が格子の隙間から細く差し込んでくる。 長い夜が、いま明けた。 (了) |