浄罪
   
by近衛 遼




ACT1

 ほかに道はなかった。
 いや、もしかしたらあったのかもしれないが、そのとき、自分にできることはそれしかなかった。
『断!』
 横一文字の攻撃結界。すべての術を、すべての技を断ずる。もちろん、その命までも。
 これを教えてくれたのは、宜汪(ぎおう)だった。
 ……わかっていたんですね。いつか、こういう日が来ると。
 父上。私はあなたに感謝しなくてはいけないのでしょうか。あなたを滅する術を授けていただいたことを。
 目の前が紅くなった。宜汪の血が視界に散る。
 幽鬼のようだった宜汪の顔に、ほんの一瞬、安堵の色が浮かんだ。口元には、笑み。
『英泉(えいせん)……』
 最期のとき、宜汪は間違いなく息子の名を呼んだ。


 それが「傀儡」と呼ばれる「呪」であると判明したのは、宜汪が絶命して丸一日たったころだった。王族である宜汪が他国の術に侵されて乱心し、仲間を次々と虐殺したのである。まさに国の存亡に関わる出来事だった。
 その宜汪を、ひとり息子の英泉が討った。
 むろん、だからといって死んだ者は戻らない。肉親を、友人を、恋人を失った者たちの無念はいかばかりであろう。父が手にかけた命をわが身ひとつで償えるとは思えないが、英泉はそのすべての思いを引き受けるつもりだった。
 宜汪の屍をさらし、「呪」の詳細を述べ、英泉は一族に自らの処分を委ねた。その結果。
 天坐の砦に残った者たちは、英泉を新たな頭に選んだ。


 宴は続いていた。
 天坐の砦は新しい長を歓迎した。久しぶりの酒に皆それぞれ思い入れがあるのか、夜半を過ぎても引き上げようとする者はいない。
 その中から、英泉はそっと抜け出した。賑やかな広間から離れ、外廊下を回って高殿に登る。月明りの差し込む窓辺に座し、英泉は深くため息をついた。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう。まさか自分がこの砦を任されるなんて。
 宜汪の「呪」の一件を聞いた槐王、籐司(とうし)も、英泉を長とすることをじつにあっさり承認したという。
『御身は喜雨なり』
 ただ一筆。籐司からの直筆の文には、そうしたためてあった。
 喜雨。日照りが続いたあとの雨。
 籐司は英泉のことを、皆が待ち望んだ存在だと暗示したのだ。
 反対がなかったはずはないのに。少なくとも、天睛の砦を与る「三柱」と称される長老たちは異を唱えただろう。
 初代槐王の庶子である凱汪(がいおう)、栄嘉(えいか)、汪善(おうぜん)の三人の将軍たちは槐王家の目付役のような存在で、初代が興した国の行く末をなによりも案じている。その長老たちの意見を退けてまで、自分に天坐を預けるなどと……。
 天坐にいる者のほとんどは、身内や知人を宜汪によって殺されている。その息子である自分の下で働くなど、不本意このうえないだろうに。
 それなのに、なぜ彼らは酒を酌み交わし、自分に杯を勧めるのだろう。だれも宜汪のことを口にしない。ただ、砦と槐の国の今後を語るのみで。
 つらかった。やさしい言葉もねぎらいも、すべてが刃のようだった。いっそのこと、宜汪を手にかけたとき、一緒に死んでいれば……。
「英泉」
 夜陰に溶けるような、ひっそりとした声。
 ぼさぼさの赤茶色の髪の男が高殿に上がってきた。英泉の守役、馮夷(ふうい)だ。
「馮夷……」
「皆がおまえを探している」
 なにも言わずに抜けてきたからか。英泉は苦笑した。
「……戻る」
 短く答えて立ち上がる。一歩を踏み出そうとしたとき、視界がふらりと傾いた。
「あ……」
 しまった。足が前に出ない。そんなに飲んでいないのに、もう酔いが回ったのだろうか。
 倒れ込みそうになるところを、馮夷の両の腕ががっしりと支えた。
「酔ったか」
「たぶん」
「では、もう寝ろ」
「皆が待っているのだろう」
「かまわぬ」
 英泉の肩を抱きながら、急な階段を一段ずつ降りていく。
 まただ。英泉は思った。こうした気遣いを皆がしてくれる。その思いが、つらかった。
 そっと馮夷の横顔を見上げる。自分より拳ふたつぶん高い位置にあるその目は、白く淀んでいる。宜汪の「呪」が発動したとき、彼は右眼の視力を失ったのだ。
「なんだ」
 下まで降りて、馮夷は足を止めた。
「いや、べつに……」
 失明したために、馮夷は第一線から外れた。すぐれた術者であるのに、いまはもっぱら砦の中で情報の整理や分析にあたっている。もともとかなりの策士ではあったが、こんなことで現場を退きたくはなかっただろう。
「やはり、広間に戻る」
 そう言って、外廊下の方へ向かおうとしたとき。馮夷の手が英泉のあごをとらえた。
 一重の黒い瞳と、白濁した瞳が近づいてくる。ふたりの唇が重なり、すぐに離れた。
 なにが起こったのか、一瞬わからなかった。唇に残る感触が、それが事実であると告げている。
「余計なことを考えるな」
「馮夷……」
「今日はもう休め。皆には、わしが適当に言っておく」
 すっと手を引き、踵を返す。廊下の角を曲がるまで、馮夷は一度も振り向かなかった。


 なんだったのだろう。あれは。
 寝床の中で、英泉は考えた。馮夷の真意がわからない。自分を止めるためだけなら、なにもあんなことをしなくてもいいだろうし、なにかしらの思惑があるのならあれだけで終わるのは解せない。経験はないが、男同士の行為が成立することは英泉も知っていた。
 それでもよかったが。
 自分の思考に、自分で驚いた。いままでそんなことを考えたこともなかったというのに。
 責められたいと思っているのかもしれない。やさしく、いたわられるのではなく。
 目をきつくつむって、寝返りをうつ。床に入って一刻ちかく。明日は都に上り、天呈(てんてい)の城におわす王に謁を求めることになっている。少しでも早く休まねば。
 思いとはうらはらに、眠りはなかなか訪れなかった。