| 注意一秒、恋一生! by 近衛 遼 ACT1 「注意一秒、怪我一生」っていうけど。 ほんの一瞬のことが、それからの人生を変えてしまうことって、ほんまにあるんやな。 おれにとっては、あのときがそれやった。五月の連休明けの朝。 歩道橋の下で、おれは通算十四回目の一目惚れをした。 「ぷはーっ。徹夜明けのコーヒーはうまいなあ。五臓六腑にしみわたるで」 逢坂将太は「吉田豆腐店」と書かれた日本てぬぐいで口をふいた。もう一方の手にはコーヒー牛乳のびんを持っている。 「おまえ、ようそんな甘ったるいもん飲めるなあ」 金茶色の長髪を三つ編みにした男が、将太を見上げて言った。背は172、3といったところか。将太はゆうに180センチを超えている。ふたりはついいましがた、夜間の道路工事のアルバイトを終えたところだった。 「なに言うとんねん、忠義。朝は甘いもん食べんといかんねんで。ブドウ糖は脳細胞を活性化させるんやから」 忠義と呼ばれた男は、ふん、と鼻先で笑った。 「なにが脳細胞や。これから帰って寝るだけやろが」 「今日は昼から講義ひとつ入っとるねん。権じじやから、さぼられへん」 「ごんじじ? なんや、それ」 「ああ、生物学の教授で権藤っちゅうじじいがおってなあ。そいつが、えらいきついやつで、いっぺんでも休んだらアウトやねん」 「アウトって?」 「単位なしっちゅうこっちゃ。去年なんか、四十度の熱出してふらふらで講義受けて、そのあと救急車で運ばれたやつもおったんやと」 「なんか、壮絶やな」 忠義はしみじみと言った。 「大学生ゆうたら、バイトしてコンパして休みには旅行して、試験のときだけ適当に答案用紙を埋めればええと思とった」 「アホ。そんなうまい話があるか」 まあ、それでも卒業だけはできる。結果、なんの使い物にもならない「大卒」が増えるというわけだ。 将太は牛乳屋の店先にびんを返して、大きくのびをした。 「さーて、今日もがんばるでぇー。忠義、うちで朝飯食うてくか? きのう舞鶴のおっちゃんからワカメ送ってきてん。味噌汁作ったるわ」 「ええんか? ほんなら、ごちになろかな」 アパートの冷蔵庫に放りこんである三日前の食パンと賞味期限の切れたハムより、手作りの味噌汁に魅かれるのは当然だろう。 「よっしゃ。行こ行こ」 将太は茶髪のバイト仲間の背を叩き、鼻歌を歌いながら歩き出した。 二十四時間営業のスーパーで卵とネギとちりめんじゃこを買い、さらに早朝から店を開けているベーカリーでメロンパンを仕入れて、将太はほくほく顔だった。 「ここのは最高やねん。昔はシキシマのメロンパンがいち押しやったけどな」 「菓子パン、好きやねんな」 忠義があきれたような顔で訊いた。 「大好きや。ケーキも好きやけど、高いからな」 「きょうび、100円ケーキの店もあるやないか」 「あれでは納得できん」 「へ?」 「毎週100円ケーキ食べるより、月に一回でええから上等なケーキ食いたいねん」 へんなところにこだわりのあるやつだ。 「そんなもんか?」 「そんなもんや……あれ? なんやろ」 将太は立ち止まった。 「あれって……ああ、あれか」 忠義も足を止める。 ふたりの視線の先には、肩ぐらいまでのさらさらの黒髪の少女がうずくまっていた。真っ白なオーバーブラウスと濃い緑色のパンツ。同じような色のチェックのリュックを横に置いている。 「どしたんかな、あんなとこで」 少女がしゃがみこんでいたのは、歩道橋の下だった。おせじにも掃除が行き届いているとは言いがたい階段の裏側で、身じろぎひとつせずにいる。 「朝帰りとちゃうか。ほっとけほっとけ。下手に声かけて、いきなりナイフでグサッとやられたらかなわんで」 「そんなふうには見えんけどなあ。具合悪いんとちゃうか」 「人は見かけによらんでー」 忠義が口をとがらせて、言った。 「こないだおれんとこに警察が来よってなあ。うちのバンドの追っかけやっとった高校生が援助交際しとったんやと。おれが貢がしたんちゃうかと、えらいしぼられたわ。その子かて、見たところはフツーの高校生やったで。どっちかっちゅうと地味な方で……おい、おまえ、人の話、聞いとるか?」 将太はまるでうわの空だ。 「悪い。ちょっと持っとって」 スーパーの袋を忠義に渡すと、歩道橋の下をのぞきこんだ。 「どないしたんや。しんどいんか?」 将太がそう言うと、少女はゆっくりと顔を上げた。 白い頬、黒目がちの大きな瞳。唇は赤ワインを水に溶かしたような淡い紅色だった。 「……なにか、用?」 やっと聞き取れるぐらいの小さな低い声で、少女は言った。 「なんか具合悪そうやから、気になってなあ。家、どこや。送っていったろか」 「家……? 違う……学校に……」 「学校? いまから行くんか? ちょっと無理ちゃうか」 「今日は、どうしても……」 少女は立ち上がろうとしたが、立ち暗みでも起こしたのか、再び地面にすわりこんでしまった。 「無茶すんな。ちょっと、おれんちで休んでいくか?」 「おまえ、朝っぱらから女の子連れ込んでどうすんねん」 忠義が背後でため息をついた。 「人聞きの悪いこと言うな、ボケ。うちにはかあちゃんも、ねえちゃんたちもおるわい」 「ああ、あの強烈なアマゾネスな」 何度か将太の家に行ったことのある忠義は、「くわばらくわばら」と小声で唱えた。 将太には姉が三人と妹が一人がいる。上から順に、みゆき、あゆみ、さゆり、めぐみといって、それぞれ将太にとっては天敵のような存在だった。 長女のみゆきは今年二十九歳。事務機器の販売会社のOLで、じつに楚々とした美人なのだが、実際はネコかぶり二十五年のキャリアの持ち主だった。 妹が生まれたときから、いかにして母親の愛を独占しようかと幼い知恵をしぼった結果、「いい子」の仮面をかぶることにしたらしい。永久就職、すなわち結婚に執着していて、見合いすることすでに三十回。仲人口もそろそろネタ切れだ。 次女のあゆみは外資系企業の秘書室に勤めている。現在、通訳の資格を取るべく勉強中だ。 男まさりのさばさばした性格で、将太としては彼女を「姉」と呼ぶにはかなり抵抗がある。幼いころから、なにかと言えば暴力をふるわれてきたからだ。「さわらぬあゆ姉に祟りなし」といったところか。 三女のさゆりは、今年大学を卒業して司書として働き始めた。いかにもお嬢様然とした雰囲気をただよわせているので、取り巻きがやたらと多いのだが、問題はまったく回りの意を解さないその性格だった。悪意がないぶん、始末が悪い。 さらに、四女のめぐみがまた曲者だ。女子高の二年生だが、なにやら美青年と美少年の妖しい世界にどっぷりとつかっていて、その方面の漫画や小説を買い漁っているらしい。先日などは、親に内緒でその類のイベントに行ってきたらしく、ますますヒートアップしている。 「おにいちゃん、頼むから友達は顔のいい人にしてや」と真剣な顔で言われたときは、どうリアクションしたらいいか一瞬固まってしまった。 ちなみに母親は皐月といって、化粧品会社のセールスレディだ。口がうまくておせっかいで新しいもの好きな性格で、現在は通信販売に凝っている。家の中は彼女が衝動的に買い求めたあやしげなグッズがあちこちに置かれていて、ただでさえ狭い将太の生活スペースを圧迫していた。 「立たれへんのか?」 将太は少女の肩に手を置いた。 「ほな、おぶったるわ。忠義、この子の荷物、持ったってえな」 「しゃあないな」 忠義はため息をつきつつ、少女のリュックを拾い上げた。 「ほら、こっちに手ぇかけて……よっこらしょっと」 将太はかけ声とともに少女を背負って立ち上がった。その直後。 「しもた……」 「どないした」 「男や」 「へ?」 「この子、男やわ」 「げっ……ほんまかいな。この別嬪さんが」 忠義はしげしげと少女……もとい、少年を見つめた。 「ほんで、どうすんねん」 「どうするもなにも……男やからって、ほっとかれへんやろ」 「……せやな」 いくぶんトーンダウンしたものの、ふたりは再び将太の家に向かって歩きはじめた。 そのころ。逢坂家では戦争のような朝を迎えていた。 といっても、べつに特別なことがあったわけではなく、女五人の洗面台やら鏡台の場所取りが毎朝の恒例だからだ。 「ちょっとめぐみ、あんたいつまでそんなとこ、すわってるん。遅刻するで」 次女のあゆみが鏡台のうしろで怒鳴った。 「うるさいなあ、あゆ姉。五月はいちばん紫外線がきついねんで。念入りにケアせんと」 「なに言うてんのん。どうせ日焼け止め塗るだけやんか。たいした化粧もせえへんくせに」 「あゆ姉かて、いっつもおんなじ化粧やねんから、鏡見んでもできるやろ」 「なんやてっ」 あゆみがさらに大声を上げたとき、長女のみゆきが部屋に入ってきた。 「めぐみ、あんた私の香水、使ったん?」 じろりと妹をにらむ。 「へ、あれ、みゆきねえちゃんのやったん? 洗面所に置いてあったから、おかあちゃんのかと思て……」 「おかあちゃんがディオール買うはずないやろ」 「ごめんなー。知らんかってん」 あっけらかんと、めぐみ。もちろん少しも悪いとは思っていない。 「どうでもええけど、早よどいて」 あゆみがとうとう、めぐみを椅子から押し出した。 「……あれ、ドライヤーは?」 「あたしは使ってへんもん」 「さっき洗面台の横に返しといたけど」 と、みゆきが言った。 「なかったで。せやから、こっちやと思て……ほな、さゆりやな」 あゆみはどたどたと廊下に出た。 「さゆり! ドライヤーは?」 台所のテーブルでゆっくり朝食を取っていたさゆりが、おっとりと顔を上げた。 「あらあ、あゆみねえさん。おはよう」 「なにとぼけたこと言うてんの。さっき一緒にごはん食べてたやんか。それより、あんた、ドライヤーどこやったん」 「ああ、ドライヤー。……ねえさん、あれ、そろそろ替えた方がいいかもねえ。音がへんになってるし」 「そんなこと訊いてへんわ。どこにあるんかて言うてるんや」 「ええと……」 箸を置いて、小首をかしげる。 「どこに置いたかしら」 「どこで使うたん」 「あ、そうそう。二階だわ」 「二階?」 「おかあさんの鏡台の……」 皐月が嫁入りのときに持ってきたという年代物だ。 「使うたらちゃんと返しときいな、まったく!」 あゆみがまた、ばたばたと階段を上っていく。その途中で、 「うわ……危ないなあ、あゆみ。気ぃつけんかいな」 皐月は洗濯ものを抱えて叫んだ。家族七人分である。並大抵の量ではない。 余談ながら、この家の主人である逢坂和夫は、この時間にはもう出勤していた。 そんなこんなで、ただでさえあわただしい朝。 逢坂家の長男は、茶髪の友人と行き倒れ(?)の少年を連れて帰ってきたのである。 |