「ほな、な」
 いつもと同じ言葉を投げて、あいつは笑った。
 綺麗な笑み。整いきった。完璧に普通の笑顔を作りながら、あいつは電車に乗りこんで。発車のベルが鳴る。
「どうしていくのだ?」
「さあな」
 肩を竦め、あいつが返した。電動じかけの扉が、無慈悲に閉まってゆく。
『わからんやろ』
 扉の向こうの唇が、引きつったように動く。 
『わからへんで、ええんや』
 ゆっくりと、電車が動きだした。




go away     by (宰相 連改め)みなひ




ACT1

「なあなあ、その本、なおしてくれへんかな」
 急に影になった。見上げる。人工色の金髪が、窓からの光に透けていた。
「何故だ?」
「だって、卒業お別れ会の出しもん話し合ってんねんもん。相馬も、うちのクラスの一員やろ?」
 笑いながら覗きこむ。眼前すぐ上に薄茶色の瞳。ネコのようにきらりと光って。
「何見てるの?」
「いや。お前を見ていた」
「なんやの、熱い視線。相馬、公立の入試終わってんから、もうガリ勉せんでいいやろ?」
 窺うように訊かれて、俺は持っていた自然科学の本をしまった。書物から知識を得ること。それは俺の習性に近かった。勉強とは異なるものだと思っている。しかし、こいつの言うことも一理ある。
「なおしたぞ」
「さんきゅ。相馬、愛してるで」
 にちゃりと笑ってあいつは言った。途端に、クラスの皆が湧き立つ。指笛。囃し立てる声。弾けるように教室に響いた。
「久御山ー、いいぞー!」
「相馬センセに愛の告白っ」
「ついでにチューいけ!」
「はいはい、どーもありがと。これで公認やな。相馬、幸せになろなー」
 言いながら、久御山は俺の首にするりと腕をまわした。感じる体温。ふわりと、自分以外の体臭。ぐいと前に引かれて、机が鳩尾の辺りを圧迫した。ゲホリと反射的に咳が出る。
「あ、ごめんごめん。咽せてもうたな。じゃな、相馬。次から聞いとってなー」
 パッと身体を離して、あいつは黒板の方へと帰っていった。そして、それまでのことなどなかったように、お別れ会とやらの議事進行を続けている。飛び出す冗談。つられる笑い。クラスの皆を巻き込んで。その時、疑問を感じた。
 久御山は、本当に笑っているのだろうか。
 目をこらして見つめる。表情は笑顔のそれをかたどっていた。声も。だけど。
 あいつの中身から発するものが、違う色をしているように思えた。
 もしかしたら、笑っていないのかもしれない。
 それが最初に、俺こと相馬達海(そうま たつみ)が、久御山俊紀(くみやま としき)を意識した瞬間だった。


 薄暗くなった教室で、カシャカシャと筆を洗う音がする。 
「暗くなってきちゃった。私、もう帰るね」
「あ、じゃあ私も帰る。相馬君は?」
 絵画の迷宮に入り込んだところで、問いかけられた。同じクラスのなんとか言った女子が、こちらを見ている。窓の外は、朱から灰色に変わり始めていた。
「俺は・・・・もう少しここにいる」
 ぼそりと返事を返すと、相手は何やら肩を竦めた。ひそりともう一人の女生徒に、なにやら囁いてかばんを取りに行く。囁かれた女子が、苦笑して俺に言った。
「それじゃあ、私達帰るね。相馬君、その、無理しないで適当に置いといてね。明日、私達も手伝うから」
「わかった」
「じゃ、さよなら」
 くるりと踵を返し、女子はかばんを取りに行った。先の女子はもう、教室の外に出ている。がたりと扉が閉まるのを見届け、俺は自分の手元に視線を移した。そこには、自分の目にも奇怪な物体。
 王宮に飾る、バラの花のつもりだったのだがな。
 バツ悪く苦笑する。昼間に話し合っていた卒業お別れ会は、劇で「眠り姫」をやることになった。普通の劇ではない。配役全部が男だという、なんとも不可解な設定の劇だ。大道具係になった俺は、今までその劇で使う背景を描いていた。
 花ぐらい、まともに描きたかったのだが。
 目指したものと出来たものの落差を痛感した。俺が大道具になった理由は得にない。余ったものに入ろうと思っていたら、この係が残っていた。さすがに卒業前のこの時期になって、背景や大道具やと遅くまで残るのは、皆敬遠したらしい。が、しかし。
 俺がこの係をやるには、著しく問題があったようだ。
 しかたがない、明日植物図鑑を持ってこよう。
 ついに断念して筆を置いた。手早く道具類を片付ける。絵の具の水を捨ててこようと思ったその時。
「あれぇ、相馬やん」
 聞き覚えのある声に、戸口の方を見た。薄暗い教室の中でも、目立つ金茶色の頭一つ。久御山俊紀だった。
「どうしたん?」
「絵を、描いていた」
「あ、お別れ会のやつかー。相馬、大道具やったんや」
 にこりと笑って、久御山は近づいてきた。俺は先に感じた疑問を思いだして、心持ち身構えてしまう。その様子を気にするでもなく、久御山は俺の隣に座った。
「あー、ええ?なんかこれ、すごいなー。何なん?」
「バラの花だ」
「げっ」
 描いたものを告げると、久御山は明確に顔を引き攣らせた。そんなにひどいのだろうかと思っていたら、苦しそうなフォローが返ってきた。
「そうかー、バラか。そやな。ここ、赤いしな、葉っぱの緑もあるわ。確かにバラやわな」
「別にかまわん。自分でもバラにみえないと思っていたところだ」
「はあ、そうか・・・・」
 事実を告げると、久御山は何とも言えないような顔をした。珍しく困っているらしい。その顔は年相応で、やつ本来のもののように思われた。
「相馬、頭ええし。何でも出来ると思とったけど、絵は下手やってんな」
 俺の発言を聞いてか、あいつの言葉は手のひらを返した。ずけずけと言いにくいことを言ってくれる。それでも、別段腹は立たなかった。
「絵は、遺伝的な因子が関係しているのかもしれない。そういえば、父の絵は見れたものではないと母が言っていた」
「へえ。おれとは反対やな」
 ぽつりと漏れた言葉に、あいつは慌てて口をつぐんだ。ちろりとこちらを見る。にやりと挑戦的に笑って、久御山は口を開いた。
「おれな、絵描きのじーさんと暮らしてんねん。えろう偏屈で、おっかないじーさんやねんで」
「そうか」
 先に言った台詞のさす人物が、その絵描きの祖父であるかはわからない。微妙に違う雰囲気も感じたが、敢えて聞き流すことにした。人はそれぞれの事情がある。後先のことを考えずに、そこに侵入するのは危険だ。
「なあ相馬、筆貸して。おれ、手伝ったるわ」
 言われて筆を差し出せば、チョイチョイと赤い絵の具が塗り重ねられた。深い紅で輪郭が取られて、影を落として。数分で、バラと大手を振って言えるものが出来上がった。
「うーんと。まあ、こんなもんでええやろ?」
 がしゃりと水桶に筆を投げ入れ、久御山は大きく息をついた。茶色の目をこちらに向ける。アーモンド型のそれに、俺が映っていた。
「どう?」
「あ、ああ」
 聞かれて慌てて返事をすれば、「相馬、なーんかナマ返事やなぁ」とあいつは笑った。困ったように。綺麗な笑顔で。何故だか、胸の奥に違和感を感じた。なんだろうと抑え込む。
「そういえば、お前はどうして残っていたのだ?」
 ふと気づき尋ねてみる。授業が終わってから、かなりの時間が経過していた。お別れ会の背景描きで残っていた俺はともかく、久御山は何故今まで残っていたのか。
「おれ?おれは、松センにつかまってたんや。一時間半説教。困るで」
松センとは、松原と言う生活指導の教師だ。出会った頃から既に久御山は金茶髪で、度々この教師に呼び出しをくらっていた。
「しっかし、松センも暇やな。おれなんかもうすぐ卒業するのに。ご苦労なこっちゃ」
 やれやれという体で久御山が立ち上がった。筆や水入れを手にしている。
「相馬。さ、はよやってまお。でないと、校門、閉まってまうわ」 
 言い捨て、久御山はすたすたと洗い場に歩いて行った。手早く洗い始める。俺はパレットを手に、後を追った。
「うー、まだ水が冷たいなぁ。はよ暖かくならんかな」
 バシャバシャと水音をたてながら、久御山が洗っている。明るい色の髪に、細かい水滴が飛ぶ。
もう乏しくなってしまった廊下の光にも、それらが煌めいて。
「その髪は、染めているのか?」
 思わず口から出ていた。下を向いたままのあいつが、目だけをこちらに向ける。
「脱色してるんや」
「何故だ?」
「そうやな・・・・・似合うから、かな」
 白い手が、キュッと蛇口を止めた。濡れる指先。ごしごしと服で拭かれて。
「思わへん?」
 顔がこちらに向けられ、あの笑顔がまた現れた。綺麗で、立ち入る隙一つない笑顔が。俺は息を呑む。
「・・・そうだな」
「やろ?なら、もう終わり。さ、帰ろ」
 くるりと背を向け、久御山は教室に入っていった。俺が入った時にはすでに、かばんをぶら下げている。
「相馬、はよせな置いていくで」
 笑顔に押されるまま、俺は自分のかばんを手に取った。久御山は既に、教室から廊下に出ていた。
「相馬とは中二ん時から一緒か。でも、帰るんは初めてやな」
 久御山が言う。
「おれ、ここで曲がるねん。ほな、な」
 軽い口調で告げて、久御山は角を曲がっていった。俺はそれに頷きながら、あの、胸に掠めた違和感が何かと考えていた。