『月落』
月が、落ちる。

byつう
一の章
白々とした月明りを背に、男は佇んでいた。顔には優しげな笑みが浮かんでいたが、その眼は獲物を狙う捕食者のものだった。
昏くゆらめく、藍色の瞳。
蜘蛛の糸に絡め取られるように、イルカはその場から逃げることができなかった。
結局、またアカデミー泊まりの日々が続いている。
カカシが里にいるときはもちろん、所用で出かけているときも、ゆっくり家で休む気にはなれなかった。なにしろ、目的のためなら手段を選ばぬ男である。任務を口実に、先日のような画策をしないとも限らない。
あのときの唯一の救いは、翌日も休みを取っていたことだ。割れた窓も、破れた障子も、なんとか一日で修理できた。
「アカデミーの先生の家に入るなんて、度胸のある泥棒ですねえ」
建具屋は、しみじみとそう言った。
「これからは、雨戸もちゃんと閉めた方がいいですよ」
「そうするよ」
曖昧な返事をしつつ、ただの泥棒だったらどんなによかったかと心の中で独白した。
建具屋が帰ったあと、イルカは当座の着替えを持ってアカデミーに出勤した。あれから、自宅にはもどっていない。
いま、イルカはファイルの分析に没頭している。
この一年ちかくの報告書を読み返し、ランクと業務別にいちばん効果的な人材をはじき出すのだ。もちろん、各々の進歩の度合いも計算に入れて。
通常の勤務時間は事務の仕事をし、時間外に分析作業をする。外回りの夜勤も積極的に入れて、イルカは昼夜を問わずに働いた。
そうでもしないと、いつカカシにつけこまれるかわからない。気を許して家に帰ろうものなら、また同じ轍を踏むことになる。
なんらかの理由があって、自分を監視下に置くのはいい。あの男は上忍だ。中忍の動向を云々する資格はあるのだから。が、あんな方法で、ことさらに貶められるのはご免だった。
窓を割られた日から、一週間あまりたったころ。
イルカは火影の館に呼ばれた。
「面白いことをやっておるようじゃな」
火影は言った。報告書の分析作業のことだ。
「は……」
イルカは頭を垂れたまま、次の言葉を待った。
「それを、使いたい。あとで持ってきてくれぬか」
「まだ、半分ほどしかできておりませんが」
「それでよい。夕刻までに、文庫へ」
「承知」
イルカは御前を辞した。
取り次ぎを要さぬ文庫へ提出するということは、これもおそらく極秘扱いなのだろう。昼休みのあいだに手早く資料を整える。
事務が長引いて遅くなってはいけない。イルカはいつにもまして、受付業務をてきぱきとこなし、終業時間きっちりに事務局を出た。
文庫は火影の館の中でも奥まった一角にあった。裏庭を通って勝手口を上がる。文庫の前で声をかけたが、応答はなかった。
なにか急な決裁でも入ったのだろうか。書類だけ置いて帰るわけにもいかない。どうしたものかとしばらく考えていると、だれかが渡殿からこちらへ向かってくる足音が聞こえた。
火影ならいいが、余人であれば姿を見られるのはまずい。イルカは文庫の中へ滑り込んだ。
足音が近づいてくる。ゆっくりとした歩調。イルカは耳をすました。この足音は、どこかで聞いたことがある。
「……まさか」
イルカは書類袋をぎゅっと握り締めた。自分の記憶が正しければ、これは……。
カチャリ、とドアが開いた。反射的に書棚の陰に身を潜める。
長身の人物が、すたすたと中に入ってきた。
「イルカ先生」
書棚に手をかけて、カカシは言った。
「隠れても無駄ですよ」
子供を諭すような、優しい声。隻眼がイルカを見下ろしている。
「どうして……ここに」
やっとのことで、イルカは訊いた。
「どうしてって、イルカ先生に会いに来たに決まってるじゃないですか」
会いに来た?
イルカはその言葉を反芻した。自分をここに呼んだのは、火影だ。夕刻に書類を持ってこい、と。
それならば、火影もカカシの行為を承知しているということなのか。あんな、理不尽な仕打ちを。
カカシの手がのびてくる。イルカはその手に、書類袋を投げつけた。
「なにするんです」
「帰ります」
短く答えて、ドアに向かう。
「駄目です」
同じように短く言い切って、カカシはイルカの腕を掴んだ。
「はなしてください」
「はなしません」
それが当然の権利だとでも言わんばかりの口調だ。イルカは両手を壁に押しつけられた。
「まだ、用があります」
「用?」
「ええ。大事な、ね」
わかっているでしょう。
そんな声が聞こえてきそうだった。
ここで、事に及ぶというのか。たしかにここなら、邪魔が入ることはあるまいが……。
イルカはカカシをにらみつけた。自分がずっとアカデミーで寝起きしているから、こんな手段に訴えたのか。上忍の特権をフルに使って。
「恐い顔ですね」
カカシがくすりと笑った。
だれのせいだと思っているのだ。イルカは奥歯を噛み締めて、横を向いた。
「じゃ、早いとこ片付けましょうか」
言うにことかいて、なんてことを。イルカがふたたび顔を上げたとき、バタン、と派手な音がしてドアが開いた。
「よおーっす」
どたどたと入ってきたのは、アスマだった。
「なにやってんだ、おまえさんたち」
「あー、ちょうどよかった」
カカシはイルカから手をはなして、言った。
「イルカ先生が、書類を見せてくれないんですよ」
「へ? なんでまた」
「火影さまに頼まれたものだから、いくら上忍にでも勝手には見せられないって」
いつ、自分がそんな話をしたのだ。イルカはそう言いたいのをぐっとこらえた。
「そりゃ、道理だな」
アスマは頷いた。
「けど、イルカ先生。三代目は急用で出かけちまってるんだ。で、俺たちが代わりに、書類を受け取ることになってんだけど……ああ、おいでなすったな」
開けっぱなしのドアの向こうに、もうひとつの人影。
「悪いわね。遅くなって」
紅が、つかつかと書棚の前までやってきた。
「資料は?」
「職務に忠実なイルカ先生が、なかなか見せてくれんのだと」
アスマが説明する。紅はちらりとイルカを見て、
「火影さまの命令よ。われわれの班と、現在、砂の国に行っている中忍の資料を渡しなさい」
「火影さまの、ご命令ですか」
イルカは確認した。
「何度も同じことを言わせないでちょうだい」
紅は断言した。イルカはカカシの脇を通って、先刻投げ捨てた書類袋を拾った。
「必要な分をお持ちください。あとは、火影さまに」
「ごくろうサン」
アスマが袋を受け取った。
「では」
イルカは一礼して、文庫を出た。
背中に、カカシの視線を感じる。粘着質の、強烈な視線だった。
裏庭を抜けて、外の道に出たところで、イルカはようやく息をついた。体がかすかに震えている。
結局、自分はカカシにからかわれたのだ。はじめから、アスマや紅が文庫に来ることはわかっていたのだから。それに、火影のことも。
カカシは、自分の遣り様を火影が容認しているかのように錯覚させて、楽しんでいたに違いない。
イルカは寝不足の頭を軽く叩いた。今日も、家には帰れそうにない。
事務局の継続使用許可を取るために、イルカは再度アカデミーに向かった。
続
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