『月船』
月の船が、夜を渡る。

byつう
二の章
終業後、近くの食堂で軽く食事をすませ、イルカはカカシの家に向かった。
カカシはいつものように、座敷で酒を飲んでいた。うしろにはすでに夜具が用意してある。
「風呂、わいてますよ」
「お借りします」
まったく、毎回、判で押したような会話だ。イルカは衣服を脱いで、籐の籠に入れた。
外はたいそう寒かった。少し長めに浴槽につかって、体をあたためる。
湯を使い、褥に入り、そしてふたたび湯を浴びてから帰る。それがここで行なうすべてだった。
座敷にもどると、カカシが杯を置いてイルカの前にやってきた。
「ちょっと……いいですか」
「はい?」
なにを訊かれたのか判然とせず、問い返す。と、その直後。
カカシはイルカの背に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。まるで、なにかを確かめるように。
カカシの息が、耳元で聞こえる。房事の最中のそれとは違い、ゆっくりとした規則正しい呼吸。
イルカは困惑した。いったい、これは何事だろう。この男が、こんなふうに自分に触れるなんて。そういえば、さっきアカデミーで会ったときも……。
「ありがとうございました」
肩に顔をうずめるようにして、カカシは言った。ゆっくりと、体をはなす。
「カカシ先生……」
疑問を口にしようとしたとき、イルカは強い力で腕を引かれ、夜具の上に倒された。
「じゃ、始めましょうか」
そう言って体の上にのしかかってきたのは、もういつものカカシだった。
単独任務に出る前夜、カカシはイルカを抱いた。
それまでのどんなときよりも、さらに深く激しく求められ、イルカは限界近くにまで追い上げられた。本当に、最後の夜かもしれないと思えるほどに。
あのときと同じことが、また繰り返されている。
ほしい、と、ひとこと言えばいいのかもしれない。そうすれば、楽になれる。
体は、狂うほどに求めていた。目の前にいる男を。だが、それを口にしてしまったら、自分はもうもどれない。
この男は力で自分をねじ伏せた。屈辱でしかないその事実が、かろうじてイルカの心を現実に繋ぎ止めている。
「今日は、えらく強情なんですね」
愛撫の手をゆるめもせずに、カカシは言った。
イルカは横を向いて、中から湧き起こってくる波に耐えていた。否定の言葉を発する余裕など、すでにない。
「でも、それも……いいです」
ぞっとするほど、優しい声。
それとは裏腹に、荒々しく背中を押され、腰を高く引き上げられる。
深々とカカシの情熱を突き立てられたとき、イルカは理性のもろさを知った。
湯船に入るのは、やめよう。
イルカは下肢の汚れだけを流して風呂場を出た。こんな状態で入浴などしたら、卒倒してしまう。
すぐに服を着る気力もなく、とりあえず夜着をはおって座敷にもどった。
「着替えなかったんですか」
意外そうに、カカシは言った。
「ちょっと……湯あたりをしたみたいで」
この目眩がおさまるまで、休みたい。イルカは座敷の隅に腰をおろした。壁にもたれて、一息つく。
カカシがすっと立ち上がり、座敷から出ていった。
厠にでも行ったのかと思っていたら、まもなくコップを持ってもどってきた。
「どうぞ」
水だ。
「ありがとうございます」
イルカはそれを受け取って、ゆっくりと飲んだ。
「大丈夫ですか」
「ええ、まあ」
コップを膳に置く。なんとか視界がはっきりしてきた。これなら、帰れそうだ。
そろそろ着替えようか。そう思って衣服にのばした手を、カカシがやんわりと掴んだ。
「来てください。もう一度」
「え……」
イルカは耳を疑った。
いままで幾度も体を重ねてきたが、続けて求められたことはない。
行為のあとはすぐに帰っていたし、カカシも引き留めるようなことはしなかった。この関係は、いわば契約であったから。
「なぜですか」
カカシの双眸を見据えて、イルカは訊いた。
「ほしいんです」
即答だった。
「ほしいんですよ。あなたが」
繰り返される言葉。しかし、はじめて聞く言葉。
頭の中で、なにかが弾けた。
「わかりました」
ぱしりと、イルカはカカシの手を払った。夜着の襟をきっちりと直し、枕元にすわる。
カカシは半間ほどはなれた場所でじっとしている。どれぐらい、そうしていただろう。ほんの数秒だったか、あるいは何分もたっていたか。
静寂を破ったのは、カカシだった。枕元にひざを進め、イルカの夜着をするりと脱がす。唇が、そっと重なった。
触れるだけの口付け。イルカは、わずかに身を引いた。
「いいんですか」
「なにがです、イルカ先生」
「舌を、噛み切るかもしれませんよ」
そのおそれがあるから、いままで唇を重ねなかったのではないのか。あれほど激しい情交を続けておきながら。
「噛んでみますか?」
うっすらと笑って、カカシは言った。
「いいですよ。あなたなら」
ふたたび唇が近づく。
カカシの舌が口腔に侵入した。絡み合う、熱い情炎。イルカの手が、ゆっくりとカカシの背に回った。
砦が、崩れたような気がした。
イルカはカカシの下で、自分の激情を隠すこともせずに喘いでいた。体も心も、もはや麻痺しているのかもしれない。
愛撫も口付けも、もちろん中に注がれる焼き付くような感覚も、すべてを受容することになんの抵抗もなくなってしまった。
右脚が高く持ち上げられる。交わりはさらに深くなり、苦痛と快楽のないまぜになったものが突き上げてくる。
波が押し寄せるたびに、自分のものではないような声が漏れる。それをカカシに吸い上げられて、また喘ぎが増す。
繋がった場所から生まれる妖しい毒が、全身に広がっていく。あと少しで頂点にのぼりつめるというところで、イルカはその毒に意識を奪われた。
黒髪を夜具に散らして、イルカは死んだように眠っていた。
体を拭き、衣服を整えたカカシが枕元にすわった。
「夜が明けてしまいますよ」
その声に、イルカはうっすらと目を開けた。
「帰らないんですか」
カカシが訊く。
「帰る? ……ああ、そうですね」
イルカは、いま自分がどこにいるのか、よくわかっていないようだった。
「すみません。今日は……このままで……」
消え入るような声でそう言い、ふたたび目を閉じる。
「わかりました」
カカシは言った。
「ゆっくり、休んでください」
夜具を肩まで引き上げる。
イルカの規則正しい寝息を聞きながら、カカシは朝が来るのを待った。
『月船』 終
物語は『弦月』へと続きます。
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