『月船』
月の船が、夜を渡る。

byつう
一の章
十日などというものは、過ぎてしまえばあっというまだ。
カカシが里を出てから、十一日目の朝。イルカは寝不足の頭をなんとか枕から引きはがし、事務局に出勤した。
「遅かったな」
同僚が声をかけてきた。
「ゆうべ、いい思いをしすぎたんじゃないのか?」
そう言って、にやりと笑う。
「そんなんじゃないよ」
イルカは苦笑した。
「え。だって、錦楼に行ったんだろ」
錦楼は、花街でも最上級の妓楼である。
「おれはお供をしただけだ。酒を飲んで、すぐに帰ってきたよ」
「へえ。そりゃ惜しかったなあ」
心底残念そうに、同僚は言った。
「ま、錦太夫の顔が拝めただけでも、儲けもんだよな」
楼の名を冠したこの太夫は、この三年あまり花街で一、二を争う名妓で、どんなに地位のある者であっても、初会では声すらかけてもらえないという評判だった。
昨日アスマが事務局に来て、錦楼につれていってやると言ったときは、冗談だと思っていた。錦楼の名にあやかって、錦茶屋とか西木館といった二流の廓がいくつかあったからだ。
「あの……ここ、ですか」
イルカは錦楼の広い玄関の前で立ちすくんだ。このあたりは来たこともない。中忍の自分たちが遊ぶのは、隠語で「二煎目」と呼ばれる中流以下の廓が多かったから。
「なんやってんだよ、イルカ先生。ほーら、入った入った」
アスマに背中を押され、イルカは錦楼の敷居をまたいだ。
前もって話を通してあったらしく、妓女が高坏に菓子を乗せてうやうやしく出迎えた。
「おいでなされませ」
妓女に先導され、二人は楼の奥へ進んだ。
黒光りしている長い廊下。それは幾度も折れ曲がって、まるで迷路のようになっている。
渡殿を通り、離れ座敷のある一角へ向かう。妓女が格子の前で裾をさばくと、それが合図であったかのように、中からからりと戸が開いた。
「お渡り、よろこばしゅう」
見習いの妓女であろうか。まだあどけない顔の少女が、二人に挨拶をした。
アスマはその前をすたすたと通っていく。イルカもあわてて、中に入った。
広い座敷の奥に、あでやかな牡丹色の着物を着た妓女がいた。アスマを認めると、脇息を外してすっと立ち上がった。自分は脇に座し、客を上に招く。
アスマはいままで女がすわっていた場所に、どっかりと腰をおろした。イルカは隅の座に控えて、アスマの指示を待った。
「まずは、お渡り、よろこばしゅう」
妓女は、涼やかな声でそう言った。
「太夫も、息災でなによりだ」
アスマはにんまりと笑った。
本物だ。イルカはちらりと上座を見た。
これが、錦太夫。どんな有力者であっても、気にいらねば即座に席を立つという楼一の名妓。
「ほんに、にくらしいお人じゃな。妾の顔なぞ、とうにお忘れかと思うておりましたぞ」
「それはこっちの台詞だ。もうここには入れんと思っていた」
「妾のかんざしを受け取らなんだは、主さまでふたりめじゃ。忘れたくとも、忘れられませぬわ」
上品、つまりは上級の娼妓には客を選ぶ権利があって、酒席のあとで客にかんざしを渡せば、床入りを承知したことになる。
アスマは以前、錦太夫の誘いを断って帰ったことがある。その理由が、太夫がカカシと懇意にしていたからだというのが、いかにも彼らしい。
「して、本日のお運びは、何用にござりまする」
太夫は艶然と微笑んで、言った。
廓は女と遊ぶ場所。しかし太夫は、アスマがそのために大金をはたいてここまで来たとは思っていないようだ。
「いや、なに、ちいとばかし、後輩を元気づけようと思ってな」
アスマは、イルカを目で指した。太夫は、いまはじめてそこに人がいることに気づいたような顔で、
「これは、まあ、たのもしげなお連れさまじゃ。……右京」
太夫は側に仕えている妓女に、目配せした。
右京と呼ばれた妓女は、イルカの前に膳を運んで、杯を勧めた。
「一献、召し上がれ。主さまも、のう」
太夫はもう一人の妓女に命じて、アスマの杯に酒を注がせた。
「音曲はいかがいたしまする」
「頼もうか」
アスマがそう言うと、太夫は硝子の鈴を二度ばかり鳴らした。襖が開いて、笛や琴などをしつらえた小さな舞台が現れた。女たちが、それぞれの持ち場にすわる。
「晴れやかに、まいりましょうぞ」
太夫が言う。女たちは楽を手に、優雅に礼をした。
その後。
イルカは一時間ばかりそこにいて、女たちの舞楽や謡いを堪能した。アスマが太夫の妹格の敵娼を用意してくれていたが、それは丁重に断った。
「なんだい、もったいない。なにも、おまえさんに花代払えって言ってるわけじゃなし」
「そういう問題ではなくて……。すみません」
ぺこりと頭を下げる。
「……ま、おまえさんがいいなら、いいけどよ」
アスマはぽりぽりと頭をかいた。
「んじゃ、俺はもうちっと遊んでから帰るわ」
「はい。お先に、失礼します」
イルカが周りの妓女にまで丁寧な礼をして出ていったのを見て、太夫は扇子をぱたりと閉じた。
「三人目、じゃな」
ほう、と、ため息。
「まあ、結構なことよ」
なにやら思い出したのか、太夫はくすくすと含み笑いをもらした。
「……太夫?」
右京が不審げに問うた。太夫はそれには答えずに、ぴしっと背筋をのばして顔を上げた。
アスマが座にもどる。太夫はふたたび扇子を広げた。
「やはり主さまは、にくらしいお人じゃわ」
わずかに首をかしげて、言う。アスマは苦笑いを浮かべながら、杯を空けた。
錦楼を出てから、イルカはまっすぐ家に帰った。
なにやら、気疲れしてしまった。錦楼にというより、あの太夫の存在感に。
金で身を売る娼妓でありながら、客におもねることなく堂々と対峙するあの姿勢は、いまの自分には重い。
カカシと太夫のあいだでは、どんな時間が流れたのだろう。もし、カカシが太夫の首にクナイをあてたとしたら。
「どうぞ、おやりなさいましな」
錦太夫なら、それぐらい言いそうだ。
夜着に着替えて、横になる。
あの男が来るかもしれない。今日は十日目だ。
もし来たら、ここで……。
窓を割られた日以来、イルカはカカシをこの家に入れていなかった。誘われたときは、いつもカカシの家を訪れて、事が終わるとどんなに遅くなってもここに帰ってきていた。
できるだろうか。この家で。
体はすでに慣らされたが、あのときの恐怖を忘れたわけではない。
イルカは寝返りを打った。夜は、しんしんと更けていく。
そして、朝。
寝不足の顔のまま、イルカは出勤する仕儀となった。生あくびが次から次へと出る。集中力が低下しているのか、やたらとケアレスミスが多い。
「アカデミーから、やりなおしたら?」
紅が書類を叩き返す。
「こんなもの、使い物になりゃしない。今日中に直して」
言い捨てて、出ていく。イルカは書類を広げ、訂正箇所をチェックしはじめた。
「手伝おうか」
同僚が声をかけた。
「いや。おれの仕事だから」
見直してみると、自分でも嫌になるほどのミスをしている。イルカは午後のほとんどを、その作業に費やした。
「できたか?」
同僚が手元を覗き込む。
「ああ。なんとか」
「じゃ、早く出してこいよ。遅くなるとまた雷が落ちるぞ」
片づけはやっといてやるから、という同僚の言葉に、イルカは書類を持って事務局を出た。
紅は修錬場にいるはずだ。分厚い書類の束を抱えて、足早に廊下を進む。
「……わっ」
玄関の前で、イルカは長身の人物とぶつかった。ばさばさと書類がちらばる。
拾わなければ。そう思って下を向いたとき、イルカはがっしりとその人物に抱きしめられた。
銀髪が、頬にふれる。この肩。この匂い。
「カ……」
名前を呼ぼうとしたが、うまく声が出てこない。押し返すこともできず、イルカはその場に立ちすくんだ。
どうして、この男はいつもこんなふうに、意表をついたことをするのだ。脈拍が速くなっているのが、自分でもわかった。
「すみません」
いきなり、カカシは手をはなした。
「書類、汚れちゃいましたね」
「あ……そうですね」
イルカは慌てて、書類を拾い上げた。
「それ、どこへ持っていくんです?」
「修錬場ですけど」
「じゃ、俺が代わりに行ってきてあげます」
「え、でも……」
「いいんです。それじゃ、またあとで」
奪うように書類を取って、カカシはすたすたと修錬場に向かった。
「あとで……か」
その言葉の意味するところは、十分にわかっている。
また、あの男に従属する日々が始まるのか。そう思う一方で、無事に帰ってきてくれたという安堵を感じている自分がいる。
一度は、あの男の死さえ願ったというのに。
どちらが本当の自分なのだろう。答えは、出せなかった。
続
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