『朱月』
朱い月が、この身を屠る。

byつう
四の章
命の危険を感じたことは、はじめてではない。
イルカとて、忍である。このところはアカデミーの教師として里に駐在し、事務の仕事もこなしているが、十代のころはもっぱら他国で諜報活動を行なっていた。
捕虜になったこともある。拷問を受けたこともある。しかし。
これほどに、静かな殺意を感じたことはなかった。
カカシが素顔をさらしている。ふだんは決して、人に見せることのない紅い瞳を。
クナイが首から離れた。それでも、イルカは身動きひとつできなかった。
カカシの強烈な「気」。それは、筆舌に尽くしがたい恐怖だった。
ザクッ、と、クナイが腰紐のあたりに当てられた。下衣が大きく切り裂かれ、カカシの脚がひざを割って入り込んできた。腰が乱暴に引き上げられる。その直後、イルカはある場所に圧迫を感じて息を飲んだ。
「ぐ……っ」
似たような経験が、彼にはあった。
中忍になったばかりのころ。捕虜になって、体中をくまなく調べられたことがある。機密文書を体内に隠していると疑われたためだ。
尋問官はイルカを全裸にして、内部を調べた。手加減など、もちろんない。イルカは一昼夜、立ち上がることすらできなかった。
間諜は武器や薬を体内に隠す訓練を受けている。尋問官がもう少し気の短い男だったら、イルカは腹を切り開かれていたかもしれない。
そのときと同じ痛みが、背中から脳髄まで突き上がる。息をするのもつらい。
差し込まれた指が、奥をかきまわすように動いている。イルカはきつく唇を噛み締めて、吐き気をこらえた。
「呼吸、してくださいね」
耳元で、カカシが言った。
「酸欠になりますよ」
勝手なことを言う。その原因を作っているのは自分のくせに。
イルカは返事をしなかった。できる状態でもなかった。
ただ、息を止めていると余計に苦しいということはわかったので、意識的にゆっくりと呼吸をするよう努めた。
指は、まだ中にいる。なにを調べているのだろう。いまはもう、諜報活動からは遠ざかっている。カカシに不審を抱かれるような要因はないはずだが。
文遣いの件やカカシの極秘任務のことで、なにか疑念を持たれているのだろうか。それなら、心配は無用なのに。
両親を亡くして以来、イルカは火影に育てられた。火影の下で、木の葉の国のために働くことを誇りに思っている。裏切ることなど、ありえないのに。
むろん、それは自分の考えで、カカシにとってはなんの関係もないのだろうが。
ようやく、指が引き抜かれた。ほっと息をつく。
「え……」
ふたたび内部に異物が侵入してくるのを感じて、イルカは身を固くした。
「……!」
収縮した場所をこじ開けるように、それは内部に押し入ってきた。
イルカは混乱した。これは、なんだ。この行為は。
拷問なら、まだ理解できる。下から自白剤を注入したり、器具を挿入したり、股間を焼いたりすることもあるのだ。しかし、これは……。
中にあるのは、生身の体だった。
じりじりとした熱を感じる。指で刺激されたのと同じ箇所を何度も突かれ、イルカは激しい衝撃を全身に受けた。
顔も肩もひざも、畳にこすれて血がにじんでいた。しかし、その痛みはもう感じない。
支配された場所に注がれる激情。イルカは最後の声を抑えることができなかった。
ぼろ布のようになって、イルカは横たわっていた。
切り裂かれた下衣はふくらはぎのあたりに引っかかっている。腰の下は体液と血液で汚れていたが、それを隠す気力すら、いまのイルカには残っていなかった。
カカシはクナイを仕舞い、身仕度を整えた。イルカはそれをぼんやりと見つめていた。
「今日は、帰ります」
カカシが言った。
今日は?
では、また来るのだろうか。この男は。
イルカはそろそろと身を起こした。疼痛に顔を歪めながら、下衣をたくしあげる。汚れた場所をとりあえず隠し、
「よかった」
ぽつりと、イルカはつぶやいた。
「……よかった?」
訝しげに、カカシは言った。
「折れてませんね、腕」
イルカは右腕をゆっくりと動かした。
思考回路が、うまく動いていない。ただ、命を獲られなかったという事実だけが存在していた。
掃除をしなくては。
漠然と、イルカは思った。皿は割れたし、畳も汚れてしまった。今日は早く休みたかったのに。
やたらと現実的なことを考えていたイルカの眼前に、カカシが立った。
「おやすみなさい、イルカ先生」
穏やかな笑顔。先刻まで自分を組み敷いていた人物とは、とても思えない。
カカシが部屋から出ていく。カチリ、と扉の閉まる音。
イルカは背中で、その音を聞いた。
翌日。
イルカは定時に事務局に顔を出した。
「……どうしたんだ、おまえ」
同僚が目を丸くして、訊いた。
無理もない。なにしろ、イルカの顔には打撲の跡や擦り傷が多々あって、痛々しいほどだったのだから。
「ああ、ちょっとね」
イルカは言葉をにごした。
事実を告げるわけにはいかない。本当は休みたかったのだが、なぜかそれが悔しくて、かなり無理をして出てきたのだ。
「酔っ払って、ケンカでもしたのか?」
酒はほどほどにしろよ、と、同僚は勝手な解釈をして、自分の席にもどっていった。
受付の開始時間。イルカは痛みをこらえて、椅子にすわった。
その日の午後、カカシは火影の館にいた。
「アスマと紅。この二人には話を通しておいた」
火影は言った。
「上忍とはいえ、あまり多くの者を使うわけにもいかぬでな」
「すみませんねえ。厄介事を持ち込んで」
とぼけた口調で、カカシは言った。
「まあ、大掃除ができるということで」
「都合のいいことを」
「しばらく雑魚がうるさいと思いますが、そのへんは大目に見てください」
「大目にと言うてもなあ」
火影は嘆息した。
「あしらいが大変だぞ。あの子らにできるかのう」
「できますとも。それだけのことは仕込んでありますから」
カカシは自信たっぷりに答えた。
「それより……」
暫時、思案して続ける。
「お借りしたいものがあるんですが」
「なんじゃ。おぬしにしては、めずらしい」
火影は眉をひそめた。
カカシは藍色の目を細めて、己が希望を上奏した。
夕刻。
同僚の帰ったあとの事務局で、イルカは日誌を書いていた。所見の欄に「特記事項なし」と記入し、引き出しに仕舞う。
終わった。
イルカは大きく息をついた。
なんとか、無事に終わった。精神的にも身体的にもくたくになったが、とりあえず業務はまっとうした。
早く帰りたい。
そう思う一方で、あの家には帰りたくないと思う。
あのあと、ほとんど事務的に体の洗浄をし、破れた服の処分をして、最後に部屋を掃除して、倒れるように床に就いた。今朝は起床直後に着替えて、家を出ている。
これから家に帰って、はたして心安らかに眠れるだろうか……。
窓の外には、大きな朱色の月が浮かんでいる。イルカは引き出しから、事務局の継続使用申請書を出した。申請理由として、残務処理と記入する。
これを出せば、朝までここにいることも可能だ。イルカはその申請書を上司の執務室に提出しようと、席を立った。
「お帰りですか」
ドアの前に、長身の人影。
なんとなく予想はしていた。カカシが来るかもしれない、と。
「なにか……ご用ですか」
抑揚のない声で、イルカは言った。カカシはイルカに近づいた。イルカはその場から一歩も動かずに、カカシを見据えた。
カカシの手がのびる。
「なにか、ご用ですか」
ふたたび、イルカは言った。カカシは手を止めた。
「ええ。用は、あります」
にっこりと笑い、
「でも、今日は帰ります」
まただ。昨日と同じ言葉。
カカシはくるりと背を向けて、事務局をあとにした。
ドアが閉まった瞬間に、イルカはぐらりと視界がゆれるのを感じた。机に手をつき、かろうじて体を支える。
カカシは、どういうつもりなのだろう。
イルカは考えた。
自分を、いわゆる危険分子として監視下に置こうとしているのだろうか。そして、いつでも始末できるのだということを思い知らせるために、昨夜のような仕打ちをしたのかもしれない。
叛意などないといくら訴えても、おそらく無駄だろう。
イルカはじっと、ドアを見つめた。
『朱月』 終
物語は『蒼月』へと続きます。
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