『朱月』
朱い月が、この身を屠る。

byつう
一の章
なんの前触れもなしに、その男は姿を消した。自分が居た痕跡を見事に消して。
まだ、やっと歩けるようになったばかりなのに……。
イルカは小さくため息をついて、仕事帰りに買ってきた夕飯の材料を卓袱台に置いた。ひとり暮らしにしては、明らかに多い。今夜も二人分の夕飯を作るつもりだったのだが、どうやらもうその必要はない。
里一番の使い手、「コピー忍者」のはたけカカシ。彼は五日前の未明に、深手を負ってイルカの家にやってきた。
「少し、休ませてください」
そう言って倒れ込んだカカシを、イルカはこの五日間、人知れず匿っていたのだ。
なんとなく、気が抜けてしまった。食材を冷蔵庫に放り込むと、ふたたび家を出る。
ラーメンでも食べに行こう。それから、餃子と大盛の飯。冷や酒の一杯もひっかけて、今日は早めに寝るとするか。なにしろ昨夜まで、まるで宿直(とのい)のように神経を張りつめていたのだから。
朧月夜の下、イルカは馴染みの店に向かって歩いた。
それから、三日。
昼の休憩からもどってきたイルカは、事務局の入り口で長身の人物と鉢合わせになった。
「カカシ先生……」
額当てで片目を隠し、口布を上げたいつもの姿。先日まで歩くこともままならなかったというのに、いまはもう、その片鱗も窺えない。
「こんにちは、イルカ先生」
にっこり笑って、カカシは言った。
「報告書、出しておきましたから」
「え……ああ、おつかれさまでした」
おそらく、架空の報告書だろう。カカシは今朝、木の葉隠れの里に帰還したことになっているのだから。
「お土産も、机の上に置いときましたよ」
「はあ、ありがとうございます」
イルカはぺこりと頭を下げた。
あのあと、偽の報告書を作り、土産を工面したのだろうか。書類はともかく、土産まで用意しなくてもよかったのに。
「それじゃ、俺はこれで」
カカシは踵を返した。イルカは慌てて顔を上げて、
「あの……カカシ先生」
「はい?」
「薬、ちゃんと飲んでくださいね」
化膿止めの薬はあと二日分あるはずだ。きっちり服用しないと、治りが遅くなる。
そう思って、なにげなく言った言葉だった。が、それに対するカカシの答えは、じつに素っ気無いものだった。
「なんの話です?」
「え、ですから……」
「やだなあ、イルカ先生。俺は、すこぶる元気ですよ」
ぴしゃりと話を打ち切り、カカシは背を向けた。振り向きもせずに、廊下を曲がっていく。
カカシの姿が見えなくなってから、ようやくイルカは自分がとんでもない失言をしたことに気づいた。
あれはすべて、なかったことなのだ。カカシが傷を負ったことも、イルカの家に隠れていたことも。
カカシはあのとき里にいなかった。火影の命を受けて他国に赴いていた。そして「今朝」、その任務を終えて帰ってきたのだ。
イルカはカカシが提出した報告書をつぶさに読んだ。あの五日間、彼がどこで何をしていたのか。
事実を抹消するために、イルカは報告書の一言一句を頭に叩き込んだ。
翌日、イルカはアカデミーに着くなり火影に呼ばれ、封蝋で丁寧に閉じられた書状を手渡された。
「これを護国寺へ」
「は。上人さまにお届けすればよろしいのですね」
文遣いをするのは久しぶりだ。
「余人を介してはならぬぞ。必ず、直に渡してくれ。復命は日の入りまでに。取り次ぎは要らぬ。わしは今日、文庫に籠もる」
よほど大事な書面らしい。それを自分のような中忍に託していいのだろうか。
「どうした。早う行け」
火影が促した。イルカは一礼して、房を辞した。
考えても仕方がない。自分は木の葉の国の忍なのだ。長の言葉は勅命である。
イルカは書状を服の裏に隠し、国界に近い護国寺に向かった。
その日の夕刻。イルカの姿はふたたび火影の館にあった。
薄暗い文庫の中で、護国寺の徳樹上人からの言伝を伝える。
「委細承知、とのことです」
「それだけか。返書は」
「ございません」
イルカは火影からの書状を見た上人の険しい顔を思い出した。一度読んで脇へ打ち遣り、しばらくたってからもう一度読んで、そのまま蝋燭の火にかざして燃やしてしまった。
「難儀なことよ」
やっと聞き取れるほどの声でそう言って、上人は燃えかすを念入りに崩した。そのまま残しておいて、万一だれかに筆の跡を読まれてはならないと思ったのだろう。
ずいぶん長いあいだ思案して、上人はやっと火影への返答を伝えた。イルカは濡れ縁の下で跪座して、それを聞いた。
「ほかに、なにか言うておらなんだか」
火影が確認する。イルカは首を横に振った。
「とくになにも」
「そうか……」
唇を結び、窓の外を見遣る。その横顔も、徳樹上人と同じく厳しいものだった。
なにか尋常ならざる事態になっているのだろうか。自分のような一介の中忍が詮索することではあるまいが。
「ま、ご苦労じゃった。下がってよいぞ」
振り向いた顔は、いつもの火影だった。イルカはふかぶかと頭を下げて、文庫をあとにした。
空は、まだ明るかった。山の端が夕焼けに染まっている。
イルカは事務局に寄って、受付を代わってもらった同僚を酒席に誘った。文遣いの件は当然、極秘である。イルカは今日、一身上の都合で休んだことになっていた。
「そんなこと、気ぃ使わなくていいよ」
同僚は笑った。
「それに、今日はオレも野暮用あるしさ。また今度、飲みに行こうな」
日誌の確認だけ頼むよ、と言って、同僚は帰っていった。
イルカは無人になった事務局で、日誌をぱらぱらとめくった。報告書はランク別に並べ直してファイルする。
今日提出された報告書にはAランクのものはなかった。むろん、上忍のみが投入される難易度の高い任務が、そうそうあるわけではないので当然だ。
しかし。
イルカは丹念に、報告書に目を通した。もしかしたら、この中にも実際とは異なる記載がなされたものがあるかもしれない。
書類の中には、いくつも教え子の名前がある。あの子がこんな仕事をこなすようになったのか。あいつはあいかわらず、細かい仕事ばかりだな……。
アカデミーを巣立っていった者たちの、その後の様子を窺うことができるのは、もはや報告書の上だけだ。忍として任務に就くようになると、同じ里に暮らしていても、顔を合わす機会は激減する。任務が終了するたびに、息急き切って報告にくるナルトのような者の方がめずらしいのだ。
「残業ですか」
いきなり声をかけられ、イルカは顔を上げた。戸口に、銀髪の上忍の姿があった。
「イルカ先生は勤勉なんですね」
机に片手をついて、カカシはイルカの手元を覗き込んだ。
「べつに、そういうわけでは……。なにか、ご用ですか」
イルカは書類を引き出しに仕舞った。
「用、ね。うーん。あると言えばあるんですけど」
「はあ。なんでしょう」
「イルカ先生、今日、お暇ですか」
「は……ええ、まあ、もう帰ろうと思っていたところですから」
「だったら、晩飯、食いに行きませんか。おごりますよ」
カカシはにっこりと笑った。
「あ、もちろん、酒もありで。地酒や焼酎をいろいろ揃えてる、いい店があるんですよ」
なぜ自分を誘うのか。いままで親しく口をきいたこともない。あの五日間を除いては。
「お疲れなら……無理にとは言いませんが」
微妙な間。もしかしたら、カカシは文遣いの件を知っているのかもしれない。あの書状が、どういうものなのかも。
「……わかりました。ご相伴に与かります」
イルカは引き出しに鍵をかけて、立ち上がった。
今日の仕事について、カカシがなにか探りをいれてくるかと思っていたが、最後までそういう話は出なかった。
アカデミーの教育方針や、他国の忍の傾向などについて持論を展開するカカシと、それに時折、意見をはさむイルカ。気のおけない者同士のディスカッションといった感じの会話が、夜遅くまで続いた。といっても、そこは上忍と中忍であるのだから、互いの立場を踏まえてのことだったが。
カカシは地酒を五合と焼酎を何杯か飲んで、至極ご機嫌だった。それでも酔った様子はみじんもない。酒豪だという噂は、どうやら本当らしい。
傷が完治しないうちに杯を重ねるのは如何なものかと思ったが、イルカはそのことには触れなかった。あれは、なかったことなのだから。
「ありがとうございました、イルカ先生」
別れ際、カカシは言った。イルカは面食らった。おごってもらったのは、こっちなのに、と。
鼻唄を歌いながら、カカシが帰っていく。イルカはカカシの真意をはかりかね、無言のままその背中を見送った。
続
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