踏青 byつう
ACT3
湯上がりの、いい匂いがする。湿気を帯びた黒髪が洗い立ての敷布の上にぱさりと散った。
ほんのりと染まった肌に指を這わせる。記憶にないいくつかの跡が目につく。
これが刃の、痛みなのだ。「仕事」のために私心を殺した証し。
セキヤはその場所を丹念になぞり、口付けた。刃はその意味を察しているのか、きつく吸い上げるたびに体を震わせた。
つくづく、自分の甘さを思い知る。
体を「道具」として使えるのは、まだ本当に大切なものを見つけていないあいだだけなのだ。だから、イルカはそれができた。高坂の城攻めのときも、北御門の内乱のときも。
ねえ、黒髪さん。あんたが所司と寝たあとに、オレがなんにも気にしないでいられたのは、そういうことだったんだ。あんたには、まだ「いいヒト」がいなかった。だからオレは、いつかあんたの「特別」になれると思って……。
「やめろよ」
いきなり、刃の手がセキヤの肩を押した。
「刃?」
動きを止めて、顔を上げる。
「どいて」
刃は身を返し、牀から下りた。床に落ちていた夜着を着て、きっちり帯を結ぶ。
「どしたの」
わけがわからず、セキヤは訊いた。
「出てって」
「え、なんで」
「馬鹿にすんなよな」
刃は唇を噛み締めた。
なにか、まずいことでもしたかな。いままでの経緯を振り返る。
一緒に風呂に入って、着替えて、ここに戻ってきて、牀に上がって……とくに変わったことはしていないはずだが。
刃はセキヤの夜着を取って、牀に投げた。
「ほかのやつのこと考えながら、おれを抱くな!」
血を吐くような、叫びだった。
『ほんとに好きな相手には、伝わるから』
そうだよね。オレは馬鹿だ。
そう言ったのは、オレ自身なのに。
イルカの困ったような顔が脳裡に浮かんだ。が、おそらくこれも、刃にはわかってしまうのだろう。
セキヤは夜着をはおると、牀から下りた。履物を突っかけて、房を出る。扉の向こうで、カチリと鍵をかける音がした。
寒い。
啓蟄は過ぎたとはいえ、まだまだ春にはほど遠い。山深いこの村では、なおさらだ。東の空はもう白んでいる。まもなく夜明けだ。
集会所では、酔い潰れた仲間が何人か、毛布にくるまって眠っていた。ここで寝るしかないかな。そんなことを考えながら、座蒲団を何枚か並べて横になった。 一部、か。
醍醐の言葉を思い出す。
意識してはいなかったが、おそらくそうなのだろう。刃が自分の一部であると同様に、自分も刃の一部になってしまったのだ。だから。
喜びも悲しみも通じてしまうのかもしれない。望むと望まざるとに関わらず。
刃はイルカの存在に気づいただろう。死してなお、いや、だからこそ深く心に残るあの人のことを。
ごめんね、刃。おまえと黒髪さんをくらべちゃいけなかったのに。くらべられるはずもなかったのに。
「あれえ、なんでこんなとこにいるんだよ」
戸口から、声がした。
「醍醐……」
「おまえ、だいぶ前に刃と部屋に戻ったんじゃなかったか?」
「そうなんだけどさー」
セキヤはむっくりと起き上がった。
「追い出されたのよ」
「へ? そりゃまた、なんで。久しぶりだからって、無茶なことしたんじゃねえだろうな」
「する前に、出てけって言われてねー」
「ありゃまあ。気の毒に」
醍醐はセキヤのとなりに腰を下ろした。
「なんか、まずいことでも言ったのか」
「言わなくても、わかっちゃったみたいね」
「……坊やのことか?」
「ん。ちょっと……思い出しちゃって」
「馬鹿が」
醍醐は大きく息を吐いた。
「あんな仕事、させるからだ」
「だよねー。もう、頭ん中、後悔でぐちゃぐちゃよ」
「後悔先に立たず、覆水盆に返らず、ってな」
「やめてよー。加煎みたいなこと言うのは」
「事実だろ」
「はいはい。身にしみてるよ」
セキヤは醍醐の肩にもたれた。
「オレのこと、嫌いになったかな」
「刃がか?」
「うん」
「んなこと、ねえよ」
「そうかな……」
まったく、情けない。数限りない修羅場をくぐり抜けてきたというのに、たったひとりの心を思って、こんなにも揺れているなんて。
セキヤはぱたりと、醍醐のひざに上体を倒した。
「おい、んなとこで寝るな」
「……寝ようよ」
「はあ?」
「寝ようよ、醍醐」
喝を入れてほしかった。どんな方法でもいい。あのときのように……。
「ご免だね」
醍醐は勢いよく立ち上がった。はずみで、セキヤは床に放り出された。
「ったーっ……なんだよ、急に」
「甘ったれんな! 俺はおまえのお守りじゃねえ」
醍醐はセキヤの襟元を掴んだ。
「お望みなら、死ぬまで責めてやってもいいけどな。それで、おまえを楽にしてやる気はさらさらないね。だいだいおまえ、贅沢なんだよ。あんないい子がいるくせにさ。自分が苦しいからって、手近なとこでごまかすのは、いい加減にやめろ。俺だって、いい迷惑だ」
手をゆるめて、横に払う。セキヤはふたたび床に投げ出された。
「刃に、ちゃんと話してやれ。坊やのことも、おまえ自身のことも。あいつならわかってくれる。……いや。きっと、わかる」
最後の方は、自分に言い聞かせるような口調だった。
「おーい、酒がないぞー」
仲間のひとりが寝言を言って、寝返りをうった。醍醐はその男に毛布を掛け直し、集会所から出ていった。
厨から、野菜を切る音がする。
「……今日の当番は、おまえかよ」
「ええ。まあ、どうせ昼までだれも起きてこないでしょうけどね」
加煎は手を休めずに、言った。
「セキヤにはまた、粥が必要かと思いまして」
「俺にも、くれ」
「それはそれは。だいぶこじれてしまったようですね」
「やっぱり、止めりゃよかったかなあ」
醍醐は木の椅子を調理台の前まで持ってきて、それにすわった。
「なにも、無理してまで刃を使うこたあなかったからな」
「無理だとは思わなかったんでしょ。セキヤも、あの子も」
「結局、読みが甘かったってことか」
「私たちも含めて、ね」
加煎は野菜と薬草を鍋に入れて、火にかけた。
「それにしても、あなたがセキヤを拒絶できるとは思いませんでしたよ。以前のことで、すっかり骨抜きになっているとばかり思っていましたからねえ」
醍醐はじろりと、加煎をにらんだ。
「……また盗み聞きかよ」
「セキヤがふらふらと集会所に入ったあとで、あなたが様子を見に行ったでしょう? ちょっと、気になったものですから」
「ったく、いつ寝てんだ、おまえ」
「お互いさまです」
「俺は、厠に行った帰りにセキヤを見かけたから……」
「まあ、そういうことにしておきましょうね」
思わせぶりに、加煎は笑った。醍醐は言い返す気力もなく、薬草粥が作られるのを見ていた。
例によって強烈な臭いが厨に充満したが、なぜかそれほど嫌な感じはしなかった。弱っているときは、やはりこの粥がいいのだろう。
セキヤはもう、房に戻っただろうか。
自分から扉を叩かなければ、開けてはもらえないのだ。それは、刃も同じ。
「セキヤも、正念場ですね」
粥をかき混ぜながら、加煎は言った。
「あの子をしっかりつかまえておけないようでは、先が思いやられますよ」
「そんなセキヤなら要らない、か?」
「べつにそこまでは……。言わぬが華、ですよ」
うっすらと一重の目を細める。醍醐は身震いした。
「……風邪、ひいたかな」
「それはいけませんねえ。もうすぐ粥ができますから、一杯召し上がれ」
「ああ。そうする」
この嫌な気分を払拭するためなら、何杯でも食ってやる。
醍醐は背中に、冷たい汗が流れるのを感じていた。
ACT4へ |