踏青 byつう
ACT4
この房で、ひとりで寝るのはじめてだ。
広い牀台、ふかふかの蒲団。肌触りのいい毛布にくるまって、セキヤの体温を感じながら眠りにつくのが、あたりまえになっていた。
『刃は、オレのもんなの』
口癖のようにそう言われ、そのことになんの疑問も抱いていなかった。あのときまでは。
『黒髪さん』
まるでそこにいるかのように、やさしく語りかけていた。いったいだれなんだろう。セキヤがあんなふうに、名を呼ぶなんて。
先刻もきっと、その人のことを考えていたのだ。根拠などない。それでも、わかってしまった。
重ねた肌から伝わる熱の、わずかな温度差。どうして気がついてしまったのか。知らずにいれば、セキヤの腕の中で満たされ、安心し、充足することができたのに。
そこまで考えて、刃はふと目を開けた。
違う。それは、本当に望んでいることじゃない。
水郷寺で自分は、強くなりたいと思った。みんなとともにいられるように。セキヤのお荷物にならないように。ただ愛され、守られるだけの存在ではいたくないと。
だから、いままで以上に努力した。醍醐からは実戦に役立つ技(要するに相手を殺す方法)を習い、加煎には書や画や茶や言葉遣い、各地の風俗習慣などを教授してもらった。だから、今回の仕事もまっとうできたのだ。
セキヤの役に立てる。セキヤの手足となれる。それは喜びだった。仕事はつらかったけれど、セキヤに出会う前の暮らしを思えば、どうということはない。
あの最悪の状況で、セキヤに会えた。いまでもあれは、奇跡だったと思っている。
前年の凶作で年貢が払えなくて、刃と妹は口減らしも兼ねて売られた。何人かの人買いの手を経て妹は雲の国の廓に売られ、刃は森の国の宿屋に売られた。
最初、宿の下働きをするのかと思っていたら、二階の部屋をあてがわれ、やたらと派手な装束に着替えさせられた。自分が「酒姫」として売られたのだと知ったのは、そのあとだった。
「あしたから客の相手をしてもらうよ」
主人は言った。
なにを言われたのかわからずにいると、主人は仕事の内容を説明し、ほかの「酒姫」が客と房事を行なっているところを刃に見せた。
頭が真っ白になった。立っていられないほど、ひざが震えた。逃げ出したくて、でも動けなくて。
事が終わるまでそこにいて、刃は覚悟を決めた。こんなところで潰されたりしない。年季が明けるまで、きっと生き残ってみせる。
その夜は結局、一睡もできなかった。でも、それがかえってよかったのかもしれない。
翌日、主人に命じられて、はじめて客の酌をした。燃えるような赤い髪をしたその男は刃を見て、「オレ、初物食いじゃないんだけどね」と興味なさげに言った。
「それじゃ、ここの旦那にそう言ったら」
ぶっきらぼうに刃は答えた。客に気を遣うゆとりはなかった。どうせ、相手はだれでも一緒だ。そう思っていた。
「いい度胸だねえ」
朱髪の男は面白そうに笑った。
「んじゃ、お手伝い、したげようか」
男は刃を二階に連れて上がった。そして。
刃は、房事の一から十まで手解きされたのだ。
「ちゃんと覚えてね。でないと、いきなり突っ込まれるよ」
次から次へといろいろな要求を出され、それに応じるだけで精一杯だった。苦しくて、つらくて、何度も嫌だと叫びそうになった。が、そうしたところで、事態が好転するわけではない。
これからずっと、こういうことをしなくてはいけないのだ。それなら、少しでも行為に慣れておいた方がいい。刃は命じられるままに、あらゆる方法で男の欲望を受け入れた。
それが、最初だった。
あれがセキヤでなかったら。考えるだけで、ぞっとする。
それこそ、恐怖心の抜けないうちにいきなり最終的な行為を強要されていたら、あのあと、自分はもっとすさんでいただろう。いくら覚悟はできていたにしろ、頭で考えるのと実際は違う。
セキヤに道標を与えてもらっていたから、なんとか歩くことができたのだ。そして、その後もセキヤは定期的に通ってきてくれた。いろいろ外の話をしてくれたし、自分の話も聞いてくれた。そのことが、どれだけ支えになったか。
ここに来てからも、そうだ。
セキヤがいるから、ここで生きていこうと思った。自分にできることは、全部やる。セキヤが望むことは、なんでもする。そう思って、いままで過ごしてきたのに。
どうして、こんなに寂しいのだろう。応えようとすればするほど、セキヤの心がわからなくなってしまう。
背中が、寒かった。
出ていけと言ったのは自分の方だ。それなのに、この苦しさはなんだ。
ただ、拒絶してしまった。セキヤの心がここにないことが、あまりにも悲しくて。
ちゃんと、訊けばよかった。だれのことを考えていたのか。その人はどんな人なのか。それで、もし答えてくれなかったら、そのときはそのときのことだ。
自分はもう子供ではない。ここを出ても、なんとでも暮らしていけるし、最悪の場合はもとの商売に戻ればいい。いずれにしても、あのころより悪くなることはないのだから。
刃は勢いよく身を起こした。
セキヤはどこに行っただろう。集会所か、あるいは醍醐か加煎の部屋か。
話をしよう。自分が思っていることを。そして話を聞こう。セキヤがなにを考えているのかを。
刃は、牀から下りて戸口に向かった。
甘ったれんな、か。
集会所の一角。床に投げ出された姿勢のままで、セキヤは独白した。
それって、オレがあのヒヨコ頭に言ったのとおんなじ台詞じゃん。
ほんと、情けない。情けなくって、笑っちまう。
ねえ、黒髪さん。オレ、あんたの教え子と同じレベルなのよ。自分のやらなきゃいけないこともわからなくて、いつまでもうじうじしてるんだから。
あんたがいまここにいたら、きっと容赦なく怒られるだろうな。
『失ってもいいんですか』
失いたくないよ。
『大切なものを』
大切だから。
やっと、わかった。イルカがなぜ、あんなにも強かったのか。
あの男を受け入れ、理解し、愛したからだ。
写輪眼のカカシ。全体から殺気をみなぎらせ、触れるものすべてを切り裂くようだったあの男を。
どんな経緯で二人が繋がったのかは知らない。が、想像はできる。
イルカは壊されたのだ。カカシによって、粉々に。そしてその後、壊れた自分の欠片をひとつひとつ拾い集めて、新しい自分を作っていったのだろう。カカシとともに。
壊す勇気。壊される勇気。ゼロから始める覚悟。
それが、セキヤにはなかった。あまりにも多くを見すぎたから。知りすぎたから。でも。
今度ばかりは、そんなことは言っていられない。
セキヤは立ち上がった。雑魚寝している仲間をまたいで、集会所を出る。
生まれたばかりの日の光が回廊に差し込んで、埃がちらちらと光っていた。
春だよな。もう。どんなに寒くても、光の色はすでに春だ。
セキヤは昔、母が歌っていたわらべうたを思い出した。
『おさとに春がおいでじゃと かかさま団子を作りおる
なんのまだまだ冬じゃよと 北風ひゅるりと戸を揺らす
おやおや風のかみさまよ ぬしには見えぬか この庭に
光の春は満ち満ちて あおき芽のふく音もする』
セキヤの生まれた地方では、まだ寒さの残る浅春のことを「光の春」と称していて、母がこの唄を歌うと、もうすぐ雪が解けて春が来ると思ったものだった。
氷柱から落ちる雫が朝日を吸い込み、きらきらと輝く。それを夜着のままで飽きもせず見入っていて、よく怒られた。そなたが風邪をひくのは勝手じゃが、移されてはほかの者が迷惑じゃ、と。
思い出は美しい。そしてそれゆえに、ときには哀しい。
あの年の冬、愛しい人たちは皆、光の春を見ることなく死んでいった。十になるやならずの自分を残して。
失ったもの。奪われたもの。それはもう、取り戻すすべはないけれど。
だからこそ、失いたくない。俺の一部。欠けていた俺を埋めてくれる存在に出会えたのだから。
別棟へ向かう渡殿に足を踏み入れる。と、その前方に、ちらりと人影が見えた。
「……刃」
セキヤは目を見張った。刃も黒目がちの瞳を見開いた。
二人はしばらくそこにいた。渡殿をはさんで。
ややあって、セキヤがふたたび歩を進めた。一歩。また一歩。
刃もゆっくりとこちらに向かってくる。まっすぐに、目をそらさずに。
真ん中あたりで、二人は足を止めた。
「すまなかった」
低い声で、セキヤは言った。
「おまえを傷つけてしまった」
刃は訝しげな顔をした。なにやら、戸惑っているようにも見える。
「おまえはほかのだれでもなく、おまえなのに……俺はそんな簡単なことさえ見失っていた」
「セキヤ……」
刃は、そろそろと左手を上げた。セキヤの髪にそっと触れて、しげしげと顔を見る。
「セキヤ、だよな?」
「ああ。俺だよ」
「なんか、違う人みたいだ」
「そうか?」
そうかもしれない。いまここにいるのは、きっと生まれたばかりの俺。
セキヤは刃の手を取った。
「おまえに、話したいことがある」
「おれも、あんたに言いたいことがある」
真摯な瞳。
逃げない、迷わない、潔い心。
俺も逃げないよ、刃。だから、なんでも言ってくれ。なんでも聞く。なんでも話す。
刃の唇が動くのを、セキヤはじっと待った。
粥を乗せた盆を持って、加煎が厨に戻ってきた。
「どうしたんだ?」
薬草粥の最後のひと口を食べ終えて、醍醐は言った。
「セキヤ、集会所にいなかったか?」
「ええ。それで、部屋に戻ったのかと思ったんですけどね」
加煎は盆を調理台に置いた。
「部屋にもいなかったってか」
「いえ……その手前の、渡殿のところに」
「いたんだったら、なんで……」
「もう粥は、必要ないみたいですよ」
「はあ?」
加煎はくつくつとと含み笑いをもらした。
「なんだよ、気持ち悪い」
醍醐があからさまに口を曲げた。
「たいしたものですね。やはり、愛の力は偉大です」
「愛って、おまえ……熱でもあるんじゃねえか?」
醍醐は真剣な顔をして、加煎の額に手をのばした。
「……ないな」
「平熱ですよ。残念ながら」
加煎は醍醐の手をそっと払った。
「セキヤは、ほんとにいい買い物をしましたねえ」
「へ?」
「あの子のことですよ」
「刃が、どうかしたのか」
さらに真剣な顔で訊く。
「あの子、セキヤを壊しましたよ」
「げ……それって、すげえまずいじゃねえか」
「と、思うでしょ」
「違うのか」
「ほんとに、私たちの立つ瀬がないですよ」
加煎は扇を広げて、ぱたぱたとあおいだ。
「ここに来て一年もたっていない新参者に、セキヤを獲られてしまうなんて」
弾けるように、醍醐は笑い出した。
「そりゃ、いい。もう、最高。おまえが白旗、上げるなんて……」
息も絶え絶えになりながら、醍醐は言った。笑いすぎて、目尻に涙まで浮かべている。
「あー、もう、十年分ぐらい笑ったぜ」
「それなら、あと十年は嫌なことばかりでも大丈夫ですね」
「明るい未来をありがとよ」
醍醐は加煎の肩を叩いた。
「さーて、寝直すかな」
「もうすぐ昼ですよ」
「あ、俺、昼飯いらねえから。おまえも、たまにはゆっくりしたらどうだ」
「……そうですね」
加煎は頷いた。
「たまには、いいですね」
二人はゆったりした足取りで、厨を出た。回廊を通り、渡殿に向かう。
そこに、セキヤたちの姿はなかった。
「部屋に戻ったかな」
にんまりと、醍醐は言った。
「みたいですねえ」
加煎は相槌を打った。
「てこたあ、あいつらは夕方まで起きてこないな」
「また粥を作りなおさないと」
「もう粥は要らないんじゃなかったか?」
「ええ。でも、私たちをこんなに心配させたんですから」
「……嫌がらせかよ」
「それぐらい、してもいいと思いませんか」
ちらりと、一重の目で横を見遣る。醍醐はひょいと肩をすくめて、
「ま、いいか。たまには、な」
「意見が合って、うれしいですよ」
加煎は扇を揺らしつつ、あでやかに笑った。
格子の閉ざされた、薄暗い房の中。広い牀の上で、どんな会話が交わされたのか。
それは、セキヤと刃だけが知っていた。
(了)
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