常葉木 byつう
ACT3
さて、どうしたものか。
醍醐は思案した。ここで出ていっちゃ、まずいよな。どういう経緯でああいうことになったのか定かではないが、刃は刃なりに考えたうえでやってるんだろうし。
庭木の陰から成り行きを見守る。
にやけて顔しやがって。そんなにいいのかよ。心の中で舌打ちする。
刃の頭を押さえ込んでいるのは魏庸といって、ここの暮らしを根っから楽しんでいるような男だった。それほどタチの悪いやつではないが、あれ以上のことをするようなら、止めに入らねば。
それにしても、目に毒だ。こんなものを見せられて、今夜まともに眠れるかどうか。すっかり、酔いも冷めてしまったではないか。
うめくような声が聞こえた。刃が魏庸からはなれる。どうやら、終わったらしい。
「……すげえな、おまえ」
魏庸は興奮を隠せないようだった。そりゃ、すごいだろうよ。なにしろ、あのセキヤの仕込みだ。
醍醐はいつぞやのことを思い出して、あわてて頭を振った。
「なあ、あしたも出てこいよ。酒でも食い物でも金でも、おまえのほしいもん、やるからさ」
刃が「酒姫」として体を売っていたころの客たちも、あんな感じだったのだろうか。醍醐は苦笑した。愛想のかけらもないのに、いや、だからこそ、そんな刃の気を引こうとやっきになっていたのかもしれない。
「勝手なことは、できないから」
刃は口元を懐紙で拭きながら、答えた。
「それより、早く、酒くれよ」
拗ねたように、言う。
「遅くなったら、また殴られちまう」
「ああ、そうか。んじゃ、これ、持ってけ」
魏庸は横に置いていた酒瓶を差し出した。
「ありがと」
素っ気無く、刃はその場を立ち去った。魏庸はしばらく刃を見送っていたが、やがて頭をかきながら厨に入っていった。
刃のあとを追って、醍醐は房に戻った。扉をそっと開ける。
中は暗かった。変だな。灯明は点けておいたはずだが。
用心しつつ、入る。と、背後に気配。咄嗟に飛び退いて、醍醐は攻撃の構えを取った。
「おれだよ」
小さな、しかし鋭い声。
「なんだ。おまえか」
扉の陰に、小柄を手にした刃がいた。
「なにやってんだ。そんなとこで」
「それは、こっちのセリフだよ」
刃は小柄を下ろして、扉を閉めた。
「帰ってきたら、あんたがいないじゃん。ずいぶん酔ってたみたいだったのに……。なにか起こったのかと思ったよ」
なるほど。心配してくれたわけか。
「すまん」
醍醐は灯をともして、牀に腰掛けた。
「どこ行ってたのさ」
「いや、じつは、おまえが戻ってくるのが遅かったんで、様子を見ようと思ってな」
刃の顔が、ぴくりと震えた。
「もしかして、あれ、見てた?」
黒い瞳が醍醐を見据える。
「ああ」
「……エロおやじ」
むすっとして、刃は横を向いた。
「言ってくれるねえ。俺がエロ親父なら、おまえ、とっくに縛られてるぞ。あんな場面に出くわして、平気でいられると思ってんのか」
醍醐は立ち上がって、刃に手をのばした。ふたたび、刃が小柄を構える。
「冗談にしても、いただけないね」
「冗談なんかじゃねえ。おまえがセキヤのもんでなきゃ……」
「おれは、セキヤのものだよ」
刃は断言した。
「……ふん。わかってらあ」
醍醐は手を下ろし、牀に倒れ込んだ。
「爺は?」
「え?」
「つなぎは、取れたのか」
確認をとる。刃は小柄を鞘に納めながら、
「うん。なんとか間に合った」
「そうか」
ごろりと寝返りをうつ。
「東門から戻ってきたところで、あいつと鉢合わせしちゃってさ。端者がいまごろ出歩いて、なにをしてるんだって言われたから……」
刃は事実を報告した。
最後まで聞いて、醍醐は牀の上に身を起こした。
「それで、あんなことを?」
「疑われたら、まずいと思って」
淡々と、刃は言った。醍醐は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。これは、あの
ときの……。
微笑みを浮かべながら、冷静に城攻めの陣立てを説明していた少年。
セキヤが、宝物のように大事にしていた、否、いまでも心の中で大切にしている「黒髪さん」。
彼とともに仕事をしたときの感覚が蘇る。高坂で、北御門で、そして下田部や西方で。
「醍醐?」
刃が牀の横に来た。
「どうかしたの。水、持ってこようか」
はっと我に返る。醍醐は刃を見上げた。
「……いや、いい」
そっと手をのばし、腕に触れる。今度は、刃も逃げなかった。邪気がないとわかったのだろう。
「あしたが勝負だ。ゆっくり休め」
「わかった。おやすみ」
刃ははっきりと頷き、となりの牀に入った。夜具をかぶって、目を閉じる。
醍醐は灯明を消した。
翌日。
屯所で会った魏庸はいつにもまして冗舌だった。
「大丈夫かい。きのう、だいぶ飲んでたじゃねえか」
「あれぐらい、水みたいなもんだよ」
醍醐は、できるだけいつも通りに答えた。本当は五、六発ぶん殴りたい気分だったが、夕刻に大きな仕事が控えている。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。
「今日は、忙しくなりそうだな」
さりげなく、話を振る。午後に御園生卿が来るというので、昼から僧兵全員で寺の周囲の警備に当たることになっているのだ。
「そうなんだよなー。お公家さんは気紛れだから、たまらんぜ」
魏庸はため息をついた。ふだん楽をしているだけに、たまにまっとうな仕事があると辛いらしい。
「ときに、あの小僧はどうしたんだ?」
探りを入れるように、訊く。
やっぱりな。醍醐は心の中でほくそ笑んだ。姿が見えないのが、気になるらしい。
「なんか具合が悪いみたいなんで、部屋に寝かせてるよ」
ことさら、興味なさげに答える。
「具合って……」
言いかけて、魏庸は口をつぐんだ。なにやら、考えているようだ。
どうやら、うまくいった。そこそこ頭のいいやつには、皆まで言わぬ方が効果がある。適当に匂わせておけば、自分の都合のいいように解釈してくれるのだ。
魏庸は「だまされた可哀想な色子」の刃に、ますます同情するだろう。そしておそらく、今日一日はそっとしておくに違いない。
今朝、醍醐は刃に、夕刻まで房から出ぬように言いつけてきた。セキヤたちが寺に入ったら、それこそ修羅場である。護身術を会得したばかりの刃には、まだ荷が勝ちすぎる。
刃はおそらく、セキヤが人を殺めるところを見たことはあるまい。あの強烈な「気」を、刃にはまだ知らせたくなかった。
「仕事が終わったら、迎えにくる。それまで、待て」
醍醐は言った。刃は頷いた。
「ここにいれば、いいんだね」
「そうだ」
「だれか、ほかのやつが入ってきたら?」
「……魏庸のことか」
「ありえない話じゃないだろ」
「そうだな」
魏庸は、刃を気に入ったはずだ。ひとりで房に残っていると知れば、昼間でも押しかけてくるかもしれない。
「一応、予防線は張っておくよ」
それを突破してきたときは。
夕刻まで、時間を稼いでもらわねばなるまい。
「わかった」
感情の窺えぬ顔で、刃は答えた。
同じだ。やはり。
醍醐はふたたび、そう思った。やるべきことをやるときの、顔。それは、記憶の中にある黒髪の坊やそのものだった。髪の色以外はまったく似ていないのに、まとう空気は同じなのだ。
セキヤはこれに気付いているだろうか。いや、おそらく、それはあるまい。
いままで刃は、セキヤの羽の下にいた。学問や武術など、厳しく教授されてはいたけれど、結局はセキヤに守られ、愛されて過ごしてきたのだ。
それが、今回は完全にセキヤから離れて、ひとりで「仕事」をすることになった。醍醐が側にいるとはいっても、完璧にフォローできるわけではない。現に、昨夜も。
そんな中で、刃は自分の頭で考え、自分の力で目の前の危難を脱した。使えるものはなんでも使って、任務を遂行していたあの坊やのように。
醍醐が房を出るとき、刃は言った。
「気をつけて」
真摯な言葉。醍醐は振り向いて、刃の顔を確認した。
黒い瞳が見送っている。いつもはぎゅっと結んでいる口元が、わずかにゆるんで笑みの形を作っていた。
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