常葉木 byつう
ACT2
これが、坊主かよ。
刃は、寺に入って小一時間のあいだに、水郷寺の堕落ぶりをひしひしと感じていた。読経の声ひとつ聞こえない。本堂も宿房も埃だらけだし、厨には肉や魚や酒まである。
刃が生まれた村の寺は戒律の厳しいところで、男子は八歳になると一年間、僧侶の修業をしなければいけなかった。ふつうに暮らしていても食うや食わずの生活だ。寺はそれよりもさらに貧しく、経文を唱えながら喜捨を求めて余所の村まで行くことも多かった。
それでも、僧たちは志高く、苦しみを知らぬ者は衆生に尽くせぬと説いた。
「世にあるものは、あるべくしてある」
幼い刃には、飢えも寒さも病も、到底「あるべくしてある」ものだとは思えなかったが、僧たちの真摯な態度を見ていると、それに反論する気にはなれなかった。
しかるに。
ここの僧たちはなんだ。僧服を着ているだけで、やっていることはヤクザ者と大差ないではないか。
昼間から酒を飲み、賭け碁に興じ、中には自分の房に色子を連れ込んでいる者までいる。さすがに一応は「寺」なので、女色に耽るわけにはいかないのだろう。
刃と醍醐は、護国寺からの紹介という形でここに来たが、これなら紹介状などなくとも、簡単にもぐりこめたのではなかろうか。現に、ほかの仲間は僧兵に酒をおごっただけで、宿房の清掃などをする雑色に雇われている。
刃は醍醐とともに、僧兵の屯所にいた。
「木の葉から来たんだったなあ」
醍醐といい勝負の、大柄な男が声をかけてきた。
「護国寺ってえのは、だいぶお固いそうじゃねえか」
ここに比べれば、大抵の寺は「固い」と思うが。
刃は、心の中で呟いた。醍醐はむっつりとした顔で、
「そうさなあ。まあ、隠れて酒は飲んでたが、楽しみはそれぐらいのもんだったかな」
「そりゃ気の毒に。ここはいいぜ。肉も魚も食べ放題だし、休みにゃ町に女を買いにも行ける」
「へえ。上のもんから、なんにも言われねえのかよ」
「その『上のもん』が率先してやってんだよ。まあ、色子の方がいいってやつもいるけどな」
どうやら、ここでは何人かの色子が宿房の一角に住まわされているようだ。
「あの小僧も、護国寺にいたのか?」
男は刃のことを訊いた。刃はそ知らぬ顔をして、屯所の中の拭き掃除をしていた。
「ああ。あれは捨て子でな。護国寺で育てられたんだよ」
あらかじめ、用意しておいた台詞を言う。
「あの通り、愛想のねえガキでさ。ケンカっ早いもんだから、坊主どもも持て余して、俺に押しつけやがったんだ」
「途中で捨ててくりゃ良かったのに」
本人が側にいるというのに、ひどい言い様である。
「そんな寝覚めの悪いことはご免だね。俺はガキと女にゃ、やさしいんだ」
よく言う。刃は吹き出しそうになるのを、なんとかこらえた。
セキヤから聞いた話だと、醍醐は色白で目のぱっちりした少年(もしくは青年)が好みで、そのうえ相手を縛る趣味があるそうだ。
それのどこが「やさしい」んだよ……。
黙々と雑巾を動かしつつ、刃は思った。
「まあ、ここでまた騒ぎを起こせば、あとは知ったこっちゃないがね」
台本通りに言って、醍醐はそっぽを向いた。
「へえ。これゃせいぜい、おとなしくしてた方がいいぜ、小僧」
男はにやにやと笑いながら、刃を見遣った。
僧兵は、「僧」と言っても、実際に受戒した者とは限らない。とくに水郷寺の僧は、ほとんど豪族と変わらぬ生活をしていて、僧兵は荘園の警備をするつわものや忍と同じようなものだった。
宿房の一室で、醍醐はその日に得た情報を薄様にしたためていた。紙縒りにして刃に託す。
「東門に『爺』が来てるはずだ。もしいなかったら、これは処分しろ。燃やしてもいいし、食っちまってもいい」
「わかった」
刃は短く答えた。「爺」というのは、いかにも人のよさそうな顔をした小柄な男で、仲間の中では最高齢である。
紙縒りを帯の芯に隠し、刃は房を出た。寺の見取り図を思い出しながら、暗い庭を進む。石段を上り、小高い築山を越えると、東門だ。
途中、屯所の横を通ったが、夜勤の僧兵たちは酒盛りの真っ最中だった。これでは宿直(とのい)の意味はない。刃はだれにも見咎められることなく、山門に着いた。
闇の中、目をこらす。生け垣がわずかに揺れた。爺だ。刃は帯から紙縒りを抜いて、手渡した。
二人とも、無言だった。爺はにんまりと笑って、刃の腕を叩いた。
『がんばんな』
音にならぬ声が聞こえる。
刃は小さく頷いて、踵を返した。長居は無用だ。来た道を戻る。
こうして、刃は初日の「仕事」をまっとうした。
同じようなことが、五日続いた。
六日目の夜。醍醐は遅くまで帰ってこなかった。日付が変わるまでにつなぎを取らなければ、爺は引き上げてしまう。
どうしたものかと思っていると、真っ赤な顔をした醍醐が転がるようにして房に入ってきた。
醍醐はうわばみだ。その男がこんな状態になっているということは、かなり飲んでいるらしい。刃はあわてて、水をコップに入れて差し出した。
「んー、すまん」
醍醐は水を一気に飲んだ。
「まだ、間に合うか」
爺とつなぎが取れるか、ということだ。
「急げば、たぶん」
「書いてる暇はない。いいか。こう伝えろ。『明日の夕刻、西の院に』と」
「明日の夕刻、西の院に」
「そうだ。あしたなら、門主だけでなく、御園生卿も殺れる」
「わかった」
刃は房を出た。いつもの道を、急いで走る。
なんとか、間に合えばいいけど。築山を越えたところで、生け垣のあたりから立ち去ろうとする人影が見えた。
声を出すわけにはいかない。刃は石を拾い、思い切り投げた。かろうじて、生け垣に当たる。人影は瞬時に、脇の木立ちに隠れた。
よかった。これで、間に合う。刃は全速力で坂道を駆け降りた。
爺は、生け垣の側に戻ってきていた。息を整えて、醍醐からの伝言を伝える。
「明日の夕刻、西の院に」
「……明日の夕刻、西の院に」
爺は復唱した。刃はこくりと頷いた。
いつものように、素早くその場を離れる。むろん、うしろなど見ない。
ふたたび築山を上り、石段を駆け降りた。屯所からは、酔い潰れた僧兵たちのいびきが聞こえている。
いままで無事だったのが、奇跡だよな。
刃は思った。権力におもねて、やりたい放題のことをやっていたのだろう。奢るものは久しからず。まったく、その通りだ。
厨の裏を通り、中庭へ抜けようとしたとき。いきなり裏口が開いて、大柄な人影が現れた。
「なんだよ、小僧」
屯所で、いつも醍醐と世間話をしている僧兵だった。
「こんな時間に、端者が出歩いて」
大きな手が、刃の腕を掴んだ。
「どこ行ってたんだ? なんかヤバいことでもやってんじゃねえだろうな」
ドスのきいた声。
まずい。ここでなにか疑念を持たれてしまっては、明日の仕事に支障が出る。
刃は素早く、男を観察した。酔っている。それでもまだ足りないのか、片方の手には酒瓶。機嫌はそれほど悪くなさそうだ。
よし。これでいこう。
刃は顔を上げた。
「酒を、取ってこいと言われて」
「酒?」
「部屋で、飲み直すって……」
「へえ。足元ふらついてたくせに、まだ飲むってか」
「おれも、やめた方がいいと思ったんだけど、口答えすると殴られるから」
「ふーん。あいつ、ガキと女にゃやさしいんじゃなかったっけ」
細かいとこまで、覚えてるんだな。刃はわざと、ため息をついた。
「やさしいなんて……冗談じゃないよ」
ぼそりと、言う。男はしげしげと刃を見た。
「もしかして、おまえ、色子か?」
かかった。
「違うよ」
一応、否定する。
「年季は明けたんだ。村まで送ってくれるって言うから、ついてきたんだけど……」
「だまされたのか」
にやにやと笑いながら、男は言った。
「あいつもよくやるねえ。ちゃっかり、専属にしちまったわけだ」
男は刃を、暗がりに引っ張った。
「酒、分けてやるからさ。ちょっと、いい気分にさせてくれよ」
「……ここで?」
まもなく師走である。夜の冷え込みは厳しい。
「俺はどっちかっつーと女の方がいいんだが」
男は刃の項を掴んだ。
「これなら、女も男も関係ねえだろ」
石垣に腰掛けて、促す。刃は男の前にひざまずいた。
ここを、満足させればいい。させてみせる。
刃は目を伏せて、その場所に顔を近づけた。
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