埋み火 by つう
ACT 2
体は、睡眠を欲していた。が、心がそれを許さない。
浅い眠りが何度か訪れたが、そのたびにカカシの絶望的な隻眼が思い起こされ、うつつにもどされてしまう。
『俺のことなんか、どうでもいいんですね』
その言葉が、イルカの耳の奥に何度も何度も去来する。乾いた声。なにもかも、あきらめたかのような。
違う、と、ひとこと言えばよかったのに。
いつも、そうだ。自分はいちばん大切なことを、口にすることができない。この世に、絶対などないと知っているから。
約束は、いつか破られる。誓いは、いつか崩れる。
それでも、人は生きていかねばならない。どんな虚構の中でも、わずかな光を目指して。
そうやって、自分はこれまでやってきた。ひとりきりになってからも、ほんの少しのあたたかさを頼りに。だから。
すべてをさらけだし、まっすぐに自分を求めてくるカカシの存在は脅威だった。またたくまに許容量を超え、それまでの自分が壊れていくのを感じた。
恐かった。この身だけでなく、心まで喰われてしまいそうで。
それゆえ、あえて目を瞑ったのだ。あの男の情熱に、体だけ応えればいいと。
もちろん、いまはそんなことは思っていない。カカシの命を、このうえなく愛しいと思う。彼が失ってきたものを、ともに探せたらどんなにいいだろうと思う。それなのに、どうしていつも、真実を伝えられないのだろう。
雨戸を閉めた薄暗い部屋の中。初夏の陽光からひとり取り残され、イルカは涙を流すことなく、泣いた。
翌日、イルカは定刻に出勤した。
結局、まともな睡眠も食事もとれなかったが、休むわけにもいかない。一日休めば、仕事が貯まる。仕事が一段落つかなければ、カカシとゆっくり話をする時間もない。
きのうの誤解を、なんとしても解きたかった。もし今日会えたら、時間を貰おう。そして、ちゃんと伝えるのだ。きのう言えなかった言葉を。
文字通り、事務的に仕事を片付けながら、イルカは機会を待っていた。
里にいるなら、カカシは必ずここに来る。昼休みか、でなければ終業間際か。それが最近の習慣になっていた。
昼休み、イルカは握り飯を片手に書類の確認をしていたが、カカシは姿を見せなかった。任務の予定は入っていないので、里にいるはずなのだが。
午後、イルカは火影に呼ばれた。場所は文庫である。
またなにか、極秘の任務なのだろうか。文遣いであれば、半日ちかくかかる。
今日中にカカシの誤解を解いておきたかったが、任務であれば致し方ない。イルカはひざを折り、火影の指示を待った。
火影は、数葉の箋をイルカに手渡した。
「そこにある者どもを、調べたい。内偵に適した者を選んでおいてくれ」
まただ。以前にも、火影は他国への間者の人選をイルカに命じたことがある。本来は上忍の仕事であるはずの人事を、なぜ火影は自分に任すのだろう。
最終的な決定は火影が行なっているにしろ、イルカの提出した名簿をほぼ踏襲している。たしかに、報告書の分析から、どんな仕事にだれが適しているか、ある程度の統計は取っているのだが。
イルカは箋をちらりと見た。中には見知った名前もある。
「内偵と申しますと、この者らに、なにか不審な点があるということでございますか」
「余所者に弱みを握られておるやもしれん。大事にならぬうちに、摘んでおかねばのう」
不都合があれば、よくて追放。悪くすれば……。
忍という仕事上、仲間を切らねばならぬこともある。そんなことは、もう重々承知している。イルカは頭を垂れた。
「して、期限は」
「明日の夕刻までに。復命は、ここにな」
「承知」
イルカがそう言って辞去しようとしたとき、文庫の扉を叩く音がした。
「お連れしました」
緊張感のない声が聞こえた。イルカははっとして、顔を上げた。この声は……。
「早かったのう。入れ」
火影は、イルカにそのままでいるよう目で合図し、扉の向こうに声をかけた。カチャリと小さな音がして、扉が開いた。
濃い紫の法衣をゆらして入ってきたのは、護国寺の宗主である徳樹上人であった。うしろに、カカシの姿も見える。
「ご無事で、なにより」
火影は上人に椅子をすすめた。上人はゆっくりと腰をおろし、隅に控えていたイルカに目を遣った。
「ほう。御許はここに出入りできる身であったか」
意外そうな声。火影は小さく笑った。
「でなければ、文遣いなどさせませぬよ」
「したが、この御仁はこたびのことをまったく知らぬ様子であったぞ」
「知らせておりませぬでな」
「なにゆえに。ここまで深入りさせておきながら、解せぬことを仰せになる」
「それはこちらの事情」
火影は表情を変えずに、言った。
「それよりも、徳樹どのにはしばし里にご滞在いただきますぞ」
「寺を放っておくのは心苦しいが、いましばらくの辛抱じゃな」
「まあ、あと一月ばかりで目処は立ちましょう」
含みのある会話を聞きながら、イルカはカカシの様子を窺った。カカシは扉の横に立ったまま、微動だにしない。
きのう、あれから護国寺まで上人を迎えに行ったのだろうか。以前は寺を離れぬと言っていた上人が、ついに里へ下りてきたということは、護国寺周辺が危うい事態になっている証拠だ。
「ご苦労であった」
火影の声がした。カカシは、一礼して踵を返した。イルカも慌てて、文庫を辞す。
渡殿をすたすたと進んでいく長身の背に、イルカは声をかけた。
「カカシ先生!」
つっ、とカカシの足が止まる。
「何か?」
面倒くさそうな顔だ。やはり、きのうのことを怒っているのか。
「あの……少し、時間をいただけますか」
「時間? 何の時間です」
嘲るような口調。イルカは必死に言葉を繋いだ。
「あやまりたいんです。きのうのことを」
「あやまってもらうようなことは、ありませんよ」
「あります。おれには」
ここで引くわけにはいかない。たとえ、どれほど罵倒されようとも。
「ふーん。まあ、いいですけど」
たいして興味もなさそうに、カカシは言った。
「じゃ、あとで行きます」
「え……」
「今日は、定刻に上がるんでしょ」
火影に命じられた仕事がある。今日は残業は必至だと思っていたのだが。
「駄目なら、いいです」
ふたたび、歩を進めようとする。イルカはカカシの腕を掴んだ。
「わかりました。お待ちしています」
「無理しなくていいんですよ」
「してません」
「そうですか? それじゃ、そういうことで」
カカシは、イルカの手をそっと払った。まるで、袖についた埃でも払うかのように。
回廊を曲がっていく後ろ姿を見送りながら、イルカは冷たいものが心に落ちていくのを感じていた。
その日、イルカは馬車馬のように働いた。定刻までに、できる限りの仕事を片付けたい。どうしてもできないものは、明日、早朝に来てやるつもりだった。
「先輩、なにかあったんですか」
新人が心配そうに言ったが、それに答える時間すら惜しかった。
「すまん。ちょっとわけありだから」
それだけ言って、仕事にもどる。
新人も同僚も尋常ならざるものを感じたのか、自分の分担をいつもより的確かつ敏速に片付けることに専念した。イルカが火影に呼ばれたことは、皆が知っていたので、それぞれ自分なりに理由づけができたのかもしれない。
事務局の異様な結束のおかげで、おおかたノルマは達成した。
イルカは定刻に事務局を出て、帰路についた。途中で惣菜屋と酒屋に寄る。
カカシが家に来るのは久しぶりだ。あの様子だと、まともに話を聞いてくれるかどうか怪しいが、できるだけいつものようにしていたい。
イルカは惣菜と冷酒と、つまみになりそうな乾物を買って、帰宅した。
遅い。
イルカは卓袱台の前で、ため息をついた。まもなく日付が変わる。
もしかして、すっぽかされたかな。
どんよりとした頭で、イルカは考えた。あの男のことだ。それぐらいのことはやるかもしれない。
それなら、それでもいい。またあした、なんとか時間を見つけて……。
そのとき、ドンドンと派手に玄関の戸を叩く音がした。
「こんばんはー」
そんな大声を出さなくても、聞こえている。
イルカは慌てて、ドアを開けた。
「早かったですねえ」
カカシは、おどけた調子で言った。
「前は、なかなか開けてくれなかったのに」
イルカは、かっとした。なにもいま、あのときのことを言わなくてもいいではないか。
「あ、怒りました?」
ずいっと、顔が近づく。
「……飲んでますね」
「はい。ほんの少し、ね」
とても、そうとは思えない。この男が、まがりなりにも酔っているのだから。
「中に入れてもらえないんですか?」
カカシはイルカの肩に両腕をかけて、訊いた。
「……どうぞ」
イルカは場所を譲った。カカシは鼻唄を歌いながら、部屋に入った。
「あれえ、なんか、いろいろ用意してもらっちゃって。もしかしてイルカ先生、晩ご飯まだですか」
わかりきっていることを訊く。
「一緒に、食べようと思っていました」
できるだけ、素直に答える。状況に流されずに、いま、自分が思っていることを。
「あ、すみません。俺、食べてきちゃいました」
「残念です」
本当の気持ちだった。通じるだろうか。いまの、この男に。
カカシは、じっとイルカを見た。イルカはカカシの言葉を待った。
「……酷だよ」
ぼそりと、カカシは言った。
「え?」
なんのことだか、わからない。イルカは顔を上げた。
がしっと、カカシの手がイルカの腕を掴んだ。乱暴に、奥の八畳にひきずっていく。
「脱いでください」
奥にたたんであった夜具の上に、投げ捨てるようにイルカの体を倒して、カカシは言った。
「あやまってくれるんでしょう。だったら、早く」
違う。そうじゃない。体で解決しようなんて、思ったわけじゃない。
イルカはカカシをにらんだ。カカシの顔が、怒りとも悲しみともつかぬものに変化していく。
「俺が、脱がしてもいいんですか」
完全に誤解している。どう言えば、わかってもらえるのだろう。自分も、カカシを求めているのだと。
「いいんですね」
カカシを制止する言葉を、イルカはとうとう見つけられなかった。
このままでいいはずがない。そんなことは、わかっている。わかっているのに、なぜ自分はいま、カカシに身を任せているのだろう。
これでは、カカシにさらなる誤解を与えるだけなのに。
忍としての命をかけてでも、抗えばよかったのだろうか。この男の手にかかって死ぬことに、自分はなんの未練もないのだから。
ただひとつ、真実を告げないまま死ぬのだけは嫌だった。カカシを、自分の命と同じぐらい大切に思っていることを。
「ん……っ」
体中を、カカシが彷徨する。あちらこちらに散らばった刻印は、肌を鮮やかに染めている。
最近は、ついぞなかったことだ。カカシがイルカの体に執拗に跡を付けていたのは、イルカがいわゆる「檻」の中にいたあいだのこと。
怪我が完治して、ここで久しぶりに肌を合わせたときから、カカシはイルカに標を付けることはしなかった。する必要もなかったのかもしれない。
イルカは、カカシのものだったから。髪の一筋からつま先まで、全部。
それがいまは、以前よりも激しく求めている。逃がしてなるものか。はなしてなるものか、と。
声を抑えることができなくなった。体はカカシの思うままになっている。これ以上、どうしようというのか。もう、限界だった。
「カ……」
名を呼ぼうとした、そのとき。
ふいに、カカシの体が離れた。
「……?」
イルカは朦朧としたまま、カカシを見上げた。
「じゃあ、俺はもう帰ります」
手早く身仕度をして、立ち上がる。
なにを言った? この男は……。
イルカは混乱した。いま、この状態で、帰るって?
カカシは振り向きもせずに、玄関に向かった。イルカは仰臥したまま、身を起こすこともできなかった。
動けない。この体を、どうすればいいのだろう。
悪い夢を見ているのかと思った。きのうのことも、今日のことも。
しかし、これは現実だ。
ドアの閉まる無機質な音が、その事実を物語っていた。
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