埋み火             by つう





ACT 3



 情けない。
 ただ、それだけだった。自分が、ひたすら情けない。
 ようやく動くようになった体を起こし、イルカは身繕いをした。
 カカシによって剥ぎとられた衣服は、とても着られるような状態ではなかった。物乞いでも、もう少しましなものを着ているだろう。
 イルカは迷わず、それらをごみ箱に捨てた。箪笥から夜着を出して、羽織る。
 しばらく、そのままぐちゃぐちゃになった夜具の上にいた。新しい敷布を出した方がいいかな。いずれにしても、また眠れそうにないけれど。
 イルカは自分で、自分の肩を抱いた。
 ああ、今日は、涙が出る。
 夜着の袖に、ぽつぽつと染みがついた。
 いつから、泣いていなかっただろう。もしかして、両親を失ったときからかもしれない。
 そうだ。もうずいぶん長いあいだ、自分のために涙を流していなかった。はじめてカカシに抱かれたときも。
 いや、あれは、抱かれたとは言わない。犯されたのだ。
 クナイを首におしつけられ、動くなと脅されて。
 それでも、一粒の涙すら出なかった。そのあとの、思い出すだけで背筋が凍るような出来事でさえ。
 やはり、人間は結構、頑丈にできている。
 でも。
 その反面、この脆さはなんだ。打ち捨てられたこの身を憐れんで、袖を濡らしている自分。なんだか、ひどく滑稽だった。
 古歌の女人のように心離れた男を想い、独り寝の夜を明かすのか。
 のどが、痙攣に似た動きをした。ひくひくと、笑いを形作っていく。
 笑いながら涙を流すという希有な経験をしながら、イルカはふたたび自分が壊れていくのを予感した。

壊れてゆく・・・。




 翌朝。
 休めたらどんなに楽だろうかと、他人事のように考えている自分を発見し、イルカは苦笑した。
 これだから、始末に負えないんだよな。
 自分で自分を分析する。もしかしたら、あの男よりくせものかもしれない。
 あのあと、体を鎮静化させるのにかなりの時間を要した。だましだまし欲求を散らし、呼吸を整えて。
 なんとか脈拍が正常値にもどったのは、明け方ちかくだ。
 結局、三日続けての徹夜と大差ない。目の下の隈は、だれが見ても明らかだった。
「うっわー。なんだい、おまえさん」
 昼休みに事務局にやってきたアスマが、イルカの顔をまじまじと見て言った。
「三代目に、またなんか仕事を押しつけられたのか?」
 ぼそっと、訊く。ほかに人はいないが、三代目の密命が絡んでいるとなると、そうそう大声では言えない。
「いえ、そういうわけでは」
 人選はきのうのうちに終わっている。
「つーことは、別口だな」
「は?」
 イルカは顔を上げた。アスマは、にんまりと笑った。
「なんか、おかしいと思ってたんだよ。ふーん。犬も喰わないってやつかい」
 犬も喰わないって、それは……。
 イルカはぐっと、言葉を飲み込んだ。もしかして、知っているのか。この男は。
 ありえないことではない。自分がカカシを庇って怪我をしたとき、この男も医療棟まで付いてきたはずだから。
 あのとき、見られたのかもしれない。体に残った跡を。
「まったく、いい年したオトナが情けないねえ」
 アスマは紫煙をふーっとふかしながら、言った。
 たしかに、情けない。そんなことは、言われなくてもわかっている。
「へえ。おまえさんでも、そんな顔するんだな」
 アスマが意外そうに言う。
「え……」
 イルカは目を見開いた。そんな顔って、どんな顔だ。あのとき、カカシも言っていた。久しぶりに見る顔、と。
「あの、それは、どういう……」
「へ、もしかして、無意識でやってたのか?」
 アスマは、心底驚いたようにイルカを見下ろした。
「そりゃ、まずいわな」
 くっくっと、含み笑いを漏らす。ややあって、アスマはイルカの眼前で言った。
「拒絶の顔だよ。さっきの、おまえさんの顔は」
「そんな……」
「自分がいちばん正しい。そう思ってるやつの顔だ。もっとも、おまえさんの場合は、そう思いたいだけかもしれねえが」
 アスマは報告書をぱさりと机に置いた。
「あいつは、子供だからよ」
「え?」
「子供には子供の言い分があるわな。世話がやけるけどよ」
 アスマは短くなった煙草を携帯用の灰皿に押しつけて、そう言った。
「ま、子供になってよかったよ。おまえさんのおかげで、な」
 言い捨てて、出ていく。イルカは呆然と、その背中を見送った。
 会話の内容からして、アスマが自分とカカシの関係を知っていることは間違いない。そして、いまの状況も。
 子供には子供の言い分がある、か。
 しかし、子供はあんなことはしないぞ。
 イルカは躯の中に巣くっている火種を感じつつ、そう思った。これを、どうすればいいのだろう。このまま、ずっと持ち続けなければならないのだろうか。
 こればかりは、自分でどうこうできるものではない。花街で遊んだとて、結果は同じだろう。
 あの男でなければ、この火を消せない。そう。もう一度燃え上がらせて、灰になるまで熱を与えてくれなければ。
 前夜のあれこれを思い出し、イルカは頭を振った。だめだ。また、へんになってしまう。
 山と積まれた書類を見据え、イルカはひたすら、業務に専念した。





 そんな日が、しばらく続いた。
 カカシは事務局はおろか、アカデミーにも顔を出していない。極秘の任務が入っているのかと思ったが、ときおり事務局に茶を飲みにくるアスマによると、ナルトたちに自主トレをさせて自分は木陰で「イチャパラ」シリーズを読んでいるという。
 そういえば、このところ七班には表向きの任務の依頼がない。そのうち、カカシとともに岩の国か雲の国に赴くことになるのだろうか。
 アスマたち上忍も関わっている特A任務に、彼らを使うことには不安があるが、それもすでに上層部では承認されているのだろう。実際、ナルトたちは何度も危険な目に遭っている。
「イルカ先生、今晩、暇かい」
 あるとき、アスマが言った。
 終業直後の事務局である。イルカはやり残した書類の訂正作業をしていた。
「はあ、まあ……」
 曖昧に答える。暇と言えば、暇だ。文遣いはする必要がなくなったし、新人も最近はそれなりに仕事をこなすようになった。これが終われば、持ち帰りの仕事はない。
「んじゃ、遊びに行かねえか」
「遊び、ですか」
「錦楼とまではいかねえが、そこそこいい女が揃ってるとこに連れてってやる」
 どういうつもりなのだろう。自分とカカシの関係を知っているくせに。
「せっかくですが……」
「そういう気分じゃねえか」
 わかっているなら訊かないでほしい。
 だいたい、この上忍の供をして花街に行ったなどとあの男に知られたら、またぞろどんな仕打ちをされるか。考えたくもない。
「ほーら、また、その顔」
 アスマはにんまりと笑った。
「言葉と態度だけ丁寧でも、それじゃ台無しだぜ。ま、おまえさんのそんな顔を知ってる人間なんて、そうはいないだろうけどよ」
 そこまで言って、アスマは急に大きく、うんうんと頷いた。
「てこたぁ、俺はおまえさんに認めてもらってんだな」
「は?」
 認める?
 なにを言っているのだろう。この男は。中忍の自分が、上忍に対してそんなおこがましい気持ちなど持っているはずもないのに。
「あらら、またドツボかいな」
 アスマは紫煙とともにため息をついた。
「世話が焼けるねえ、おまえさんも。いい加減に、こうでなくちゃならない、なんて考えるのはやめちまいな」
 新しい煙草を取りだしつつ、続ける。
「そんなもん、決まってないんだよ。生きてんだからな。ああだこうだと、自分をがんじがらめにしてどうするよ。ばかばかしい」
 アスマは、よっこらしょ、と長椅子から立ち上がった。
「んじゃ、行くわ。邪魔したな」
 ひらひらと手を振って、出ていく。
 イルカは訂正の終わった書類を袋に入れながら、考えた。自分は、そんなに高い壁を築いていたのだろうか。何事に対しても、何人に対しても。
 拒絶の顔だと、アスマは言った。自分を正当化する者の顔だと。
 そうかもしれない。カカシと関係を持った当初は、自分を守るためにはこうするしかないのだと言い聞かせていた。なにも見ず、なにも聞かず。ただ、人形のように夜を過ごしていた。
『久しぶりに、見ましたよ』
 ふいに、カカシの言葉が思い出された。
 ああ、そうか……。
 ぱさりと、書類袋が落ちた。封をしていなかったので、中身が何枚か床に散らばる。
 また、自分はあのときにもどってしまっていたのだ。
 イルカは苦笑した。まったく、何度同じ過ちを繰り返せば気がすむのだろう。
 いや、まだ間に合う。まだ、遅くはない。気がついたのだから。
 イルカは事務局を出た。仄かに明るさの残る空の下、カカシの家に向かう。
 町屋のあいだを抜けて、川縁の道を進む。夕方の風に夾竹桃がゆらゆらとゆれている。
 何度も通った道だった。もう、目を閉じていても歩けるほどに。
 こんなに遠かっただろうか。気が急いているときの道程は長い。
 やっと、見えてきた。ぽつんと、一軒だけ建っているカカシの家。
 イルカは走った。
 走って、走って。そして、玄関の戸に手をかけた。
 思った通り、鍵はかかってなかった。カカシは常に、鍵をかけていなかった。家にいるときも、不在のときも。
 不用心だと言ったら、「あなたしか来る人はいないから」と言われた。冗談だと思って笑ったら、カカシは少し困ったような顔をした。
 どうして忘れていたんだろう。こんな大切なことを。



 あなたしか来る人はいないから。
 あなただけ、来てくれればいい。



「カカシ先生!」
 名を呼びながら、家の中に入った。長い廊下を突っ切って、奥の座敷に向かう。
 からり、と襖を開けた。カカシは、いつものように膳の上に酒を乗せて、杯を口に運んでいた。
 薄ものの夜着の袖からのぞく、すらりとした腕。長い指。湯を使ったあとなのだろうか。まだ乾ききっていない銀髪が額に垂れていて、なんとなく印象が違って見えた。
「何ですか」
 抑揚のない声で、カカシは言った。
 イルカは座敷の中に入った。半間ほど離れた場所に、腰をおろす。
「話したいことがあって、来ました」
 心の中で、その言葉をあたためる。カカシは、わずかに目を見開いた。
「話したいこと?」
「はい」
 イルカはひざを進めた。カカシから目をそらさずに、ゆっくりと。
 イルカの顔が、カカシの頬に触れそうになった。互いの息が聞こえるほどの距離で、イルカはその言葉を言った。



 カカシの顔が、まるで面を剥がしたかのように変わった。
 破顔一笑。
 これ以上はないというぐらい、幸せそうな顔。
 言葉には、これほどの力があるのか。心から紡ぎ出した言霊は、負の要因をことごとく溶かしてしまうのかもしれない。



 愛し合う、という言葉にふさわしい、ひと夜だった。
 求め合い、与え合い、互いを愛しんで。
 穏やかな眠りの中で、二人は二人であることの奇跡を痛いほどに感じていた。
 


  (了)






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