埋み火             by つう





ACT1



 俺のことなんか、どうでもいいんですね。
 カカシは言った。凍りついた瞳で。
 違う。そんなことはない。
 イルカは叫んだ。が、その声が音となって空気を震わすことはなかった。
 なぜ言えなかったのだろう。わかっているのに。言の葉が、この男にとってどれほど大切なものなのか。
 どうでもいいなんて、ありえない。しかし、カカシにそう思われてしまったことがショックで、声が出なかった。
 カカシの姿が消えたあと、イルカはその場に崩れた。




 多忙だった。
 雲の国と岩の国とで進行しているなんらかの作戦は、あいかわらず一進一退の状態だった。
 護国寺の徳樹上人と火影との文遣いは、いまだイルカに任されていた。イルカが怪我をして休んでいたあいだは紅がその任に就いていたらしいが、復帰してからはまた、事務と文遣いと情報処理という、三足の草鞋だ。
 事務局には新しく入ってきた新人の中忍もいて、イルカはその指導にもあたっていたので、厳密には四足の草鞋ということになる。表向きは何事もなく過ぎているだけに、睡眠時間を削っての隠密行動は、身体的にも精神的にも負担になりつつあった。
 紅が言うように、どれか手を抜けばいいのだろう。とりあえず支障の少ないところで、新人の指導あたりか。
 新人といっても、中忍である。仕事のノウハウは自分で覚えてもらえばいいのだが、訊かれるとつい、いろいろと教えてしまう。そして、その新人に礼など言われて、翌日に田舎から送ってきたという野菜を貰ったりすると、そうそう無下にもできなくなってしまうのだ。
 これはもう、性格だから仕方ない。
 そんな毎日だったから、カカシとはすれ違いが多くなっていた。たまの休みもずれていて、互いの家を行き来することも、ここしばらくなかった。
「この仕事を片付けるまで、おあずけってことですかねえ」
 昼休みの事務局で、カカシは愚痴った。
「ここで、そういうことを言わないでください」
 イルカは書類に確認印を押しながら、言った。昼休みとはいえ、休んでいる暇もないのだ。
「だれもいないんだから、いいでしょ」
「いなくても、駄目です」
 自分たちの関係を恥じてなどいないが、ことさら吹聴したいことでもない。できれば、このままだれにも知られずにそっとあたためていたい。
 あれほどの苦しみの果てに、やっとここまで辿り着いたのだから。
「話ぐらい、いいじゃないですか。せっかくあなたに会えても、ここじゃ触れることもできないんですから」
 しれっとして、続ける。
「俺も、それぐらいの礼儀は心得てますよ」
 よく言う。その「礼儀を心得ている」男が、人んちの窓をぶち破るのか。
 いまとなっては恰好の脅しのネタだが、あのときの戦慄を忘れたわけではない。自分でも、よくあの恐怖を乗り越えたと思う。人間の心というものは、じつは結構、丈夫にできているのかもしれない。
「今日は、夜勤でしたっけ」
「それは、あしたです」
「あ、じゃあ、今夜空いてます?」
 期待満々の顔。イルカは苦笑した。
「すみません。あしたまでに仕上げなければならない書類があるので」
「俺と書類と、どっちが大事なんですか」
 まるで子供だ。しかし、それすらも愛しいと感じている自分がいる。
「あんたですよ。もちろん」
 間髪入れずに、答える。カカシは目をまんまるにしてイルカを見つめた。
「ずるいですね」
「だれかに似たんです」
「そんなやつ、大嫌いです」
 カカシは反動をつけて、ばっと立ち上がった。
「じゃ、また来ます」
「はい」
 微笑して、カカシを見送る。カカシはドアのところで立ち止まり、すたすたと引き返してきた。
「だれも、いません」
「は?」
 顔を上げたところに、カカシの顔が近づいた。
 ほんの一瞬の口付け。あっけにとられているあいだに、カカシは上機嫌で引き上げていった。
 だれが、礼儀を心得てるって?
 イルカは、ふたたび苦笑した。あらためて、あの男の二面性を感じる。純粋すぎるほどの幼児性と、同じく透明な狂気と。
 つくづく、とんでもない男に関わってしまったものだと思う。でも、最終的にそれを選んだのは自分なのだ。あの男の命を、愛しいと思ってしまった。それはもう否定できない。
 イルカは唇に残るかすかな体温を感じつつ、仕事にもどった。





 終業間際になって、事務局に紅が怒鳴り込んできた。
「あんたたち、私に無駄足させたわね」
 ばん、と、任務の依頼書を机に叩き付ける。
「任務の日程を間違えるなんて、最低ね。これ作ったの、だれ」
 新人が、おずおずと手を上げた。
 それを認めると、紅はつかつかと受付の中に入ってきた。
 ぱしっ、と、鋭い音がした。紅はさらに、頭ひとつ大きい新人の襟もとを掴んだ。
「今度こんなことがあったら、その右手、貰うわよ」
 単なる脅し以上の迫力だ。
「書類一枚、まともに書けないような手なら要らないでしょ」
 薄く笑って、言う。新人はすっかり固まっていた。
「この仕事は、べつの班に回してちょうだい」
 紅は、イルカに向かってそう言った。イルカは直立して、一礼した。
「ご迷惑をおかけしました。今後、このようなことがないように気をつけます」
「当然ね」
 ばっさりと切り捨てて、紅は出ていった。新人はまだ、表情をこわばらせている。イルカはその肩をぽん、と叩いた。
「書き直しを頼む」
「え……」
 新人は、信じられないような顔をしている。
「私が……ですか」
「もちろん」
 イルカは、にっこりと笑った。
「自分の仕事に、責任を持て」
「……はい」
 新人は大きく頷いて、紅が突き返した書類を手に、席にもどった。
 手痛い洗礼ではあったが、これでつまらないミスはしなくなるだろう。真面目で一生懸命なのはわかるが、どうもいまひとつ融通がきかないところがある。自分がこうと思い込んだら、それを唯一のものと思ってしまう。
 イルカはひと息ついた。あとで飲みに誘うかな。例の書類は、夜なべですればいい。教官役も、今日で終わりになりそうだし。
 汗をふきふき書き直しをしている後輩を横目に、イルカはそんなことを考えた。



 仲間内でよく行く居酒屋は、今日も賑わっていた。見知った顔もいくつかある。
 イルカは何人かと挨拶を交わし、新人とカウンターにすわった。
「今日は、すみませんでした」
 しゅんとしている新人に、イルカは酒を勧めた。
「やり直しがきく仕事でよかったな」
「は?」
「おれたちの仕事は、命のやりとりをすることもある。やり直しがきかないこともあるってことを、覚えておくんだな」
「……はい」
 新人は、杯を口に運んだ。
 何杯か飲み、そこそこに食べ、イルカは居酒屋を出た。新人は何度も頭を下げて、帰っていった。
 少々甘いが、向上心のあるやつだ。それなりに仕事をこなしていくだろう。
 イルカは大きく息をついて、帰路についた。



 翌朝、ほとんど徹夜で仕上げた書類を火影に提出して、イルカは事務局に入った。新人は、もう仕事を始めている。
「先輩、おはようございますっ」
 声にも張りがあって、イルカは安心した。
 その日の業務はつつがなく終了し、イルカは夜勤に就いた。
 いつも通りに里の見回りと、火影の館の警備。タイムテーブル通りに仕事は終わり、午前四時に引き継ぎを済ませた。
 さすがに、眠い。
 実質的に、二晩、徹夜したようなものだ。イルカはあくびをかみ殺しつつ、帰路についた。
 一年でいちばん夜明けの早い時期だ。いま生まれたばかりの日の光が目にしみる。こんなときは、明るささえも恨めしく思えるのだから、不思議だ。
 自宅の鍵を開けようとしたとき、背後に人の気配を感じて振り向いた。
「あ……」
 カカシが、立っていた。
 朝日に、銀髪がきらきらと光っている。
「どうしたんですか、こんな時間に」
「酒、飲みに行ってたんですってね」
 低い、声。
「は?」
「書類を仕上げなきゃいけないって言ってたのに」
 一昨日のことだ。紅に叱責された新人を連れて、居酒屋に行ったときの。
「あ……あれは、後輩の……」
 カカシの手が、ずい、と伸びた。イルカののどに、長い指がかかる。
 怒っている。カカシが、怒っている?
 後輩の指導も仕事のうちだ。それが、どうしてこんなことになるんだ。
 イルカは唇を結んだ。自分には、自分の仕事がある。忍として、それをまっとうしているだけなのに。
「久しぶりに見ますよ」
 カカシは寂しそうに言った。
「あなたの、そんな顔」
「え……」
 いま、自分はどんな顔をしていたのだろう。久しぶりに見る、顔?
「あなたは、俺のことなんか、どうでもいいんですね」
 一語一語、はっきりと区切って、カカシは言った。
 すっと、手が離れる。藍色の隻眼が、まるで氷のように見えた。
 違う!
 イルカは叫んだ。いや、叫ぼうとした。
 しかし、それは声になることはなく、むなしく空気に溶けてしまった。
 カカシが、朝日の中に消えていく。追いかけたかった。追いかけて、違うと言いたかった。
 どうでもいいはずがないではないか。この身も心も引き換えにして、あの男の命を守りたいとさえ思ったのに。
 それなのに、動けなかった。カカシにそんな誤解を与えてしまったことに、イルカはすっかり困惑していたから。
 どうすればいいのだろう。この思いを伝えるためには。
 カカシの姿が視界から消える。イルカは、その場にがっくりと崩れ落ちた。





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