『沈月』

byつう

ACT 3 〜弦月編〜



 夜が明けても、イルカは目を覚まさなかった。
 カカシは、まんじりともせずにイルカの枕元で杯を重ねていた。
 旨い。久しぶりに、そう思った。心地よい感覚がもどってくる。酔うほどは飲まなかったが、それでも十分満足できた。
 規則正しい寝息が聞こえている。苦しみも悲しみも、なにも知らないような無垢な寝顔。
 この様子では、昼ごろまで眠りつづけるかもしれない。
 カカシは微笑した。まあ、いい。欠勤届を出しておいてやろう。事務局の連中には、思い切り引かれるかもしれないが。
 いたずらを考える子供のような顔で、カカシは小さく笑い続けた。





 それからしばらくは、表向きの仕事が忙しくてなかなかイルカに会うことができなかった。イルカも火影から情報分析の仕事を命じられたらしく、事務局詰めの日々が続いているようだった。
 七班の訓練が一段落したある日、カカシは久しぶりに「喜八」に足を運んだ。
「おやあ、先生。ずいぶんご無沙汰でしたねえ」
 歯に衣着せぬ店主が、カカシに声をかけた。
「今日は、お一人で?」
 まったく、客商売というのは記憶力が命らしい。店主は、カカシがイルカを伴って何度か通っていたことをしっかり覚えていた。
「うーん、ちょっとね。あの先生は、具合悪くって」
「そりゃ、いけませんなあ。んじゃ、これ、見舞いに持ってってくだせえ」
 店主は、棚から冷酒の瓶を取った。
「あ、いけねえいけねえ。もしかして、飲んじゃ駄目なクチで?」
「いやあ、そんなことはないから、貰っとこうかな」
「どうぞどうぞ。また、ご一緒に来てくだせえよ」
 からからと、店主は笑う。カカシもそれにつられて、口元をゆるめた。



 また、ご一緒に来てくだせえよ。
 店主の言葉が、耳の奥に残る。
 そんな日が来るだろうか。また、あのころのように杯を交わす日が。
 カカシは頭を振った。ばかなことを。そんな甘い夢を見てどうする。
 自分がなにをしたのかぐらい、わかっている。イルカを汚し、壊し、喰らいつくしたのだ。いや、いまも、貪るように喰らいつづけている。
 過去は変えられない。変えようとも思わない。安っぽい救いなど、はなから求めてはいない。
 それなのに、なぜこんなに心が揺らぐのだろう。
『すみません。今日は……このままで……』
 イルカの顔が、脳裏に浮かんだ。
 あのとき、イルカはカカシに命を預けた。生まれたばかりの赤子のように。
 もちろん、自分はいつでも彼を殺せる。たとえ房事のさなかに襲われたとて、返り討ちにするのは造作もない。中忍と上忍には、歴然とした力の差があるのだから。
 しかし、そんな理屈はどうでもいい。イルカが自分の前で眠ってくれた。それだけで、心の中の棘がぽろぽろと剥がれていくような気がした。
 イルカの存在は自分を浄化させるとともに、自分がいかに汚れたものであるかを再認識させる。醜悪な自分を突きつけられる。それでも自分は、彼を欲することをやめられない。
 沈々と、夜は更ける。
 冬の空に月はなく、ただ青白い星が瞬いているだけだった。



 店主がカカシに渡した酒は、以前、イルカが好んで口にしていたものだった。あらためて、記憶力の確かさに舌を巻く。
 次にイルカが来たときにでも開けるか。そう考えてから、カカシはそれは無理だと翻意した。
 いままで、イルカがこの家で飲み食いをしたことはない。彼がここで為すことは、たったひとつだった。最初からそうだったし、これからもそうだろう。
 さて、どうしたものか。
 せっかく貰ったのだ。できれば、イルカに飲んでほしい。
 しばらく逡巡した結果、こちらから出向くしかないと結論し、カカシは翌日の夕刻、イルカの家に向かった。
 冬の日が暮れるのは早い。薄墨色の空には、昨夜と同じように冴えざえとした星が煌めいている。
 事務局の終業時間に合わせて来たつもりだったが、イルカはまだ帰宅していなかった。今日も残業か。夜勤の日ではなかったはずだが。
 しばらく待っても帰らなかったら、アカデミーまで行ってみるか。川沿いの道をぶらぶらしながら、時間を潰す。
 小一時間ばかりして、やっと見慣れた姿が路地の向こうに見えた。なにやら考え事をしながら、それでもしゃきしゃきと足早に歩いている。
 家の前まで来たところで、カカシはイルカに声をかけた。
「あー、よかった。寒いから、なかなか帰ってこなかったらどうしようかと思ってましたよ」
 イルカは目を丸くしている。
「カカシ先生、どうして……」
 明らかに、狼狽している。たしかに、今日はなんの約束もしていない。昼間のうちはなにかと雑用が多くて、事務局に行けなかったのだ。
「早く開けてくださいよ。足元が冷えちゃって、じんじんするんです」
 大袈裟に、言う。イルカは迷っているようだった。
「イルカ先生?」
 ずるいと自分でもわかっている。しかし、ここで引くつもりもなかった。
「……すみません。いま、開けます」
 イルカは鍵を差し込もうとした。が、手がこわばっているかのように、うまくできない。鍵が、かしゃん、と下に落ちた。
「あ……」
「俺が、開けますよ」
 カカシはすばやく、鍵を拾った。イルカはぼんやりとこちらを見ている。
「入らないんですか?」
 ドアを開けて、促す。
 イルカは固い表情のまま、カカシの前を通って玄関に入った。

 明かりをつけるより先に、イルカは奥の襖を閉めた。
 それから六畳間の明かりをつけて、座蒲団を置く。カカシは酒の入った箱を持って、部屋に上がった。
「どうぞ」
 視線を合わせずに、言う。カカシは卓袱台の前にすわって、箱を差し出した。
「お土産です」
「え?」
 イルカが顔を上げる。
「こんな時期にどうかとも思ったのですが」
 カカシは包みを開けた。イルカはまじまじと、その酒を見た。
「飲みませんか」
 言いながら、栓を抜く。
「いただきます」
 イルカは湯呑みを卓袱台に置いた。水屋からつまみを出して、皿に盛る。
「たいしたものはありませんが」
「十分ですよ」
 カカシはイルカの湯呑みに酒を注いだ。イルカはすぐに、それを口に運んだ。こくこくと、嚥下する音が聞こえる。
 イルカは酒に強い方ではない。一緒に飲みに行っていたときも、食べる合間に少しずつ飲むといった感じだった。それが今日は、水を飲むのと大差ないピッチで杯を重ねている。
 湯呑みを持つ手の動きが、緩慢になってきた。目もこころなしか潤んでいて、酔いが急速に回っているようだ。
 しばらくすると、イルカは卓袱台に頬をつけて目をつむってしまった。
「イルカ先生? 大丈夫ですか」
 とりあえず、声をかけてみる。
 イルカはぼんやりとした表情で、カカシを見上げた。
「カカシ先生……」
「はい?」
「どうして……おれなんか抱くんですか」
 こらえていたものを吐き出すかのように、イルカは言った。
 どうして? どうして、抱くのかって?
 そんなもの、決まっている。ほしいからだ。手にいれたいからだ。
 俺は、ほしいと言った。あなたも、わかったと言った。それなのに、なぜいまになって、そんなことを訊くんだ。
 すべてを、わかってくれたのではなかったのか。あの夜、俺のそばにずっといてくれたじゃないか。そして、いまも。
 イルカは卓袱台に突っ伏して、うとうととしはじめた。あのときと同じように、無防備な顔をして。
 イルカの体も命も、この手に中にある。こうして、まるごと預かっている。
 カカシは困惑した。イルカはここまで自身を託してくれているのに、このうえ自分はなにを欲しているのだろう。
「俺にも、わからないです」
 イルカにというより、自分に向かって言う。
 ほしいものは、ひとつだけ。だが、それは無限でもある。
 どの瞬間のイルカも、ほしいから。きのうのイルカも、今日のイルカも、あしたのイルカも。全部、ほしいから。
 果てしなく、自分はイルカを求めつづけるのだろう。メビウスの輪の中で。
 いつまでたっても、どこまで行っても終わりはない。
 カカシはイルカの背に蒲団をかけて、そっと黒髪に口付けた。




ACT 4 〜月窟編〜へ続く

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