『沈月』
byつう
ACT2〜月船編〜
まったく、手間のかかることをしてくれて。
カカシは手についた血を、いま仕留めた相手の服で拭った。首を落として、できるだけ人目につくところにさらさねばならない。それが今回の仕事だった。
カリスマ的なこの指導者がいなくなれば、戦線はかなり楽になるだろう。なにしろこいつが命じれば、死も恐れずに戦い続ける輩が山ほどいる。予見できない行動をとられると、作戦のたてようもない。
まあ、こいつが死んだって、第二、第三のリーダーが生まれるのは目に見えているが、そんなことは自分には関係ない。
カカシは首級を持って、山城を抜けた。
夜のうちに、里まで帰り着けると思っていたのだが、さすがに頭を殺された連中はしつこくて、追手を振り払うのに予想外の時間を食ってしまった。
もう少し早く帰ってきていたら、イルカのところに行けたのに。
里に入る直前に、カカシは血のついた服を捨てた。ざっと体を拭いて、新しい服に着替える。
会いたい。一刻も早く会いたい。
イルカの顔を見て、自分は生きて帰ってきたのだと実感したかった。
今日は、どちらの勤務日だろう。アカデミーの教室か、事務局か、あるいは文庫に呼ばれているか。
修錬場や教室にはいない。やはり、事務局だな。カカシは事務局のある建物に向かった。
玄関に入ろうとしたところで、前が見えぬほどの書類の束を抱えた人物が出てきた。カカシは足を止めた。
イルカだ。イルカが、常の通り生真面目な顔をして書類を運んでいる。
急いでいるのか、前をまったく見ていないようだ。カカシがそこにいるのにも気づかずに、真正面からぶつかった。
「……わっ」
ばさばさと書類が散らばる。イルカの顔が、はっきりと顕われた。
なぜ、そんなことをしたのか、自分でもわからない。
気がついたときには、カカシはイルカを抱きしめていた。
この肩、この背、この髪。鼻腔から、慣れ親しんだ匂いが入り込む。一瞬、自分がイルカの内に浸透していくような気がした。
「……」
イルカが、なにか言いかけて口ごもった。脈拍が速くなってきている。
「すみません」
カカシはわれに返った。
「書類、汚れちゃいましたね」
「あ……そうですね」
イルカはひざを折って、書類を拾い上げた。束ねた髪の下の項に、つい目が行く。襟で隠れてはいるが、前のとき、あのあたりに標をつけた。それから、あそこにも……。
自分を覚えていられるように、忘れないように、ことさら強く跡を残した。あの標は、まだ残っているだろうか。
「それ、どこへ持っていくんですか」
カカシは訊いた。
「修錬場ですけど」
「じゃ、俺が代わりに行ってきてあげます」
「え、でも……」
「いいんです」
これ以上そばにいたら、自分を抑えられそうにない。
「それじゃ、またあとで」
イルカの手から奪うように書類を取ると、カカシは修錬場に向かった。
待つ時間は長い。しかし、カカシはこの時間が嫌いではなかった。
たいして旨くもない酒を飲みながら、イルカを待つ。
それにしても、なぜあんなことをしたのだろう。たしかに会いたかった。顔を見て、安心したかった。しかし、あんなところで抱きしめるつもりなどなかったのに。
発作的な行動だった。彼の姿を認めた途端、無意識のうちに手がのびていたのだ。
玄関に人の気配。カカシはわずかに顔を上げた。廊下を進む足音が聞こえる。ややあって、からりと襖が開いた。
額宛てをつけたままのイルカが、座敷の隅で一礼した。
「風呂、わいてますよ」
「お借りします」
立ち上がって、風呂場へ向かう。
カカシはさらに、待った。杯がなんどか、膳と口もとを往復した。
いつもより、長いな。そんなことを考えていると、髪をおろして夜着に着替えたイルカが座敷にもどってきた。
カカシは杯を置いて、立ち上がった。
「ちょっと……いいですか」
「はい?」
問い返すように、顔を上げる。カカシはそのイルカの背に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。
目を閉じて、腕の中にある体を確かめる。ほんのりとあたたかい。濡れた髪の匂い。肌の匂い。じんわりと、心の中にしみてくるようだ。
体の充足ではなく、心の充足。たったこれだけのことで、自分は満たされるのだ。
信じられなかった。いままで自分は、追い上げて攻めたてて、奪い取ることでしか満足できなかったのに。いや、それすらも、奪ってしまったあとはまた、すぐに次を求めてしまう。それなのに。
カカシはイルカの肩に顔をうずめた。
「ありがとうございました」
すんなりと、言葉が出た。ゆっくりと体をはなす。
「カカシ先生……」
のぞきこむようにして、イルカがこちらを見た。わずかにはだけた夜着の襟元から、先の名残りが窺えた。
よかった。まだ、残っている。
カカシは強い力でイルカの腕を引っ張った。夜具の上に体を倒し、のしかかる。
「じゃ、始めましょうか」
いつも通りの台詞。イルカは黙って目を閉じた。
薄く残る跡を辿り、カカシはこの十日あまりの空白を埋めようと、イルカに愛撫を与え続けた。唇で、舌で、指で、あるいは掌で。
狂うほどに求めているのだと、わからせたかった。本当は、一刻たりとも離れていたくないのだ、と。
声が漏れる。息が乱れる。苦しげな表情が、またカカシの熱を育てる。
もう少し追いつめれば、また名前を呼んでくれるのだろうか。この前のときのように。
色がなくなるほどに噛み締められた唇。そのあいだを割って、侵入したい。
いままで一度も、触れたことのない場所に。
こんなに激しい交わりを繰り返しているのに、二人は唇を重ねたことがなかった。もし、舌を噛み切られたら。その危惧を無視できなかったから。
そのかわり、あごに、頬に、唇を這わせる。耳の下から腱に沿って鎖骨まで下りていくと、イルカはようやく手をカカシの腕に添えて身を震わせた。
「今日は、えらく強情なんですね」
本当に、やけに無理をしている。この前もそうだったが。
「でも、それも……いいです」
耐える顔もいい。そのあとの、崩れる瞬間が見たい。
カカシはイルカの体を返して、夜具に顔を押しつけた。力を失った腰を高く持ち上げる。わななきながら乱れていくイルカの背を、カカシは陶酔にも似た感覚の中で見つめた。
イルカが湯を使うために座敷をあとにした。いくぶん足がふらついている。
無理もない。自分ですら、しばらく身を起こすのが億劫だったのだから。
とりあえず身繕いをして膳の前にすわったとき、イルカがもどってきた。
ずいぶん早いな。そう思って顔を上げる。
カカシは目を見張った。イルカは身仕度もせず髪も束ねず、夜着をはおっただけの姿で座敷に入ってきた。
「着替えなかったんですか」
思わず、訊いてしまった。
「ちょっと……湯あたりをしたみたいで」
けだるそうに、答える。
本当に、つらそうだ。カカシは座敷を出て、厨で水を汲んできた。
「どうぞ」
コップを差し出す。
「ありがとうございます」
イルカはそろそろと手をのばして、それを受け取った。
「大丈夫ですか」
「ええ、まあ」
そう言って息をつく様は、これまで見たことのないほど妖しい艶を醸し出している。
しばらくして、イルカの手が衣服にのびた。帰るつもりなのだ。いつものように。
カカシはその手を、やんわりと掴んだ。イルカが首をかしげて、こちらを見る。
「来てください。もう一度」
また、言葉が滑り出た。
「え……」
イルカの顔に、困惑の色が浮かぶ。
「なぜですか」
しっかりとこちらを見据えて、イルカは訊いた。
「ほしいんです」
直球を返す。それ以外、できなかった。
「ほしいんですよ。あなたが」
自分に言い聞かせるように、言葉を重ねた。
ほんの一瞬の、間。
そういえば、こんなことを言ったのははじめてだったか。身を焦がすほどに思っていても、一度も口にしたことはなかった。あなたがほしい、と。
「わかりました」
イルカは、カカシの手を払った。ふたたび枕元にすわりなおし、こちらを見る。
わかった、とイルカは言った。
本当に? 本当にわかっているのだろうか。この焼けるような気持ちが。
カカシはしばらく動けなかった。イルカのまっすぐな視線が、カカシの心に突き刺さる。
どれぐらいの時間がたっただろう。数秒か、あるいは何分もたっていたか。ようやくカカシは、枕元にひざを進めた。
イルカの夜着をするりと脱がせ、顔を近づける。ほんの少し、触れるだけの口付け。
「いいんですか」
イルカは、わずかに身を引いた。
「なにがです、イルカ先生」
「舌を、噛み切るかもしれませんよ」
かまわない。そんなことは。あなたは、わかったと言ったじゃないか。
「噛んでみますか?」
ふたたび、唇を近づける。
「いいですよ。あなたなら」
唇が重なる。深く、深く。
イルカの手が、そっとカカシの背に回った。そのあたたかさを確認して、カカシはイルカを夜具に倒した。
イルカの体は熱かった。指先も唇も、もちろんカカシを受け入れる場所も。
体裁も羞恥心もかなぐり捨てて、イルカはカカシを全身で感じているようだった。甘い声が耳に届く。その唇をふさぐと、また喘ぎが増幅される。
言葉をかける暇もなく、カカシはイルカの脚を高く持ち上げた。イルカの腰が、自然と動く。
来た。
イルカが、ここに来た。
カカシは自分を包み込むイルカの情炎を感じて、さらに深く、激しく交わった。
ほんの少し湿った黒髪が、夜具の上に広がっている。
頂点まで達したあと、イルカは死んだようにして眠りに落ちた。あれから、もうかなりの時間がたっている。
身仕度を終えて、カカシは枕元にもどった。
「夜が明けてしまいますよ」
そっと、声をかける。イルカはうっすらと目を開けた。
「帰らないんですか」
「帰る?……ああ、そうですね」
ぼんやりと、呟く。思考が、まっとうに働いていないようだ。
「すみません。今日は……このままで……」
消え入るような声でそう言い、イルカはふたたび意識を放した。
このままで? このまま、ここにいてくれるのか。
常ならば、どんなに遅くなっても帰っていたのに。
「わかりました」
カカシはイルカの髪をなでた。
「ゆっくり、休んでください」
夜具を肩まで引き上げて、言う。
いてくれるのだ。イルカが。自分のそばに。
赤子のように無防備なその寝顔を見ながら、カカシははじめて「幸せ」という言葉を知った。
ACT 3〜弦月編〜へ続く
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