『沈月』

byつう

ACT 1 〜月彩編〜



 手に入れた。
 たしかに、そう思ったのに。
 たしかに、この手の中にあるのに。
 それなのに、あなたはいない。こうして触れていても、壊れるほどに抱いていても。
 応えてくれる体はあっても、あなたは、いない。





 事が終わると、イルカは夜着をたくし寄せて、褥から離れた。
「湯を、お借りします」
 ひっそりと言って、座敷を出ていく。
 いつもと同じだ。まったく、判で押したように。
 カカシは濡らした練り布で体を拭き、身繕いをした。夜具は乱れ、先刻までの情交の跡が歴然と残っている。
 敷布だけ剥がして、籠に入れる。これまた、いつもと同じ作業だ。
 カカシは膳を引いて、酒を飲みはじめた。
 味などわからない。ただ、液体がのどを通り過ぎていくだけだ。むろん、酔うこともない。
 イルカと床を共にするようになって、もう三月になる。
 はじめて、ほしいと思った相手だった。きっかけは、なんだったのだろう。そんなことはもう覚えていない。ただ、ほしいと思った。
 自分を見つめる眼、話をする唇、ともに杯を交わす手。そして、自分に向けられる心。
 全部ほしかった。ほしくて、ほしくて、どうすればいいかわからなくて。
 だから、自分が知っている方法で、彼を奪った。
 体を繋げば、忘れられることはない。自分という存在を、刻み込むことができる……。
 すすきが原で彼を捕まえたとき、これで確実に、自分のものになったと思った。
「逃げませんから」
 イルカは言った。そしてその言葉通り、彼はいままで一度も拒んだことはない。
 そうだ。
 拒まれたことはない。いつもいつも、求めれば応じてくれる。このごろはすっかり互いの肌も馴染んで、触れる場所すべてから痺れるような感覚を得ることもあるぐらいだ。
 それなのに。
 この空虚な、ざらついた感情はなんだ。褥の中にいるときはあんなにも満たされて、今日こそ、完全に繋がったと思えるのに。
 体をはなした途端に、いままで手の中にあったものが砂のように崩れてしまう。跡形もなく、余韻すらなく。
 ついさっきまで自分の下で鮮やかに脈打っていた体も、褥の外ではまったくべつのものになっている。
「カカシ先生」
 イルカがもどってきた。すでに衣服も整えて、髪も束ねている。
「帰ります」
 まるで通常の任務を済ませた報告でもしているかのように、座敷の隅に跪座する。
「また、来てくださいね」
 確かめずにはいられない。次があるのだ、と。
「は。では、これで」
 きっちりと礼をして、立ち上がる。襖が、音もなく閉まった。
 遠ざかる足音。玄関を出ていく気配。
 今日もまた、手に入れることができなかった。どんなに深く交わろうとも、彼はいない。
 パリン、と鋭い音。
 塗りの杯が無惨に割れた。カカシは自分が握り潰した杯を、じっと見つめつづけた。





 火影からの密命は、夜になってから下った。明け方には里をでなければならない。
 今回は、一筋縄ではいかないだろう。山ひとつを要塞にしているようなところにもぐり込まなければいけないのだから。
 うまくいって、七日。うっかりしたら、十日ちかくかかるかもしれない。
 カカシはイルカの家に向かった。命を落とす危険がないわけではない。どうしても、今夜、会いたかった。
 川沿いの小さな貸家。そこが、イルカの住まいだった。
 明かりはついていない。人の気配もない。
 逃げられた。
 一瞬、そう思った。この時間に、いないはずはない。もう日付も変わろうとしているのに……。
 カカシは焦った。しかし、焦りが怒りに変わる直前、なんとか通常の思考を取り戻した。
 このところ、イルカは火影の秘書のような仕事もしている。もしかしたら、まだアカデミーにいるのかもしれない。
 足早に、アカデミーに向かう。途中、「喜八」の前を通った。のれんが風にゆれている。脇の硝子窓は曇っていて、中までは見えなかった。
 そういえば、しばらくここにも来てないな。
 ひとりで行く気にはなれなかった。しかし、いまのイルカを誘う気にもならない。
 命じれば、ついてくるだろう。しかし、利き酒はもとより、普通に飲む酒の味すらわかるまい。
 あのころのイルカは、もういないのだから。
 自分が壊した。それでも、ほしかったから。
 ほしい。いま、イルカがほしい。
 この体があるうちは、イルカの体を感じていたい。
 カカシはさらに、歩を早めた。




 冷たい風が頬をなぶっていく。
 急くときの道程は、なんと長いのだろう。いつもなら、気づかぬうちにアカデミーまで辿り着いているのに。
 前方に見慣れた姿を認めて、カカシは心底ほっとした。
「ああ、よかった。すれ違いにならなくて」
 心から、そう思った。イルカは不思議そうな顔をしている。
「すれ違い?」
「いま、イルカ先生んちに行ったんですよ」
 わけを説明する。一瞬、イルカは眉をひそめた。
 そのとき、見えた。彼の気持ちが。きっと、以前のことを思い出したのだ。
 カカシは、大袈裟に手を振った。
「あ、大丈夫ですよ。中に人がいないってことぐらい、すぐにわかりましたから」
 無人の家の、玄関を壊してもどうにもならない。
「……なにか、ご用ですか」
 イルカは、訊いた。
 まただ。
 また、いつもの顔に変わってしまった。すべてを受け入れながら、すべてを拒絶する顔に。
 それでも、自分は確かめずにはいられない。自分は、間違いなく生きているのだと。イルカの体の中に、自分はいるのだと。




 その夜、カカシはイルカを求め続けた。
 体が極限まで達していても、心の渇きは癒えない。まだだ。まだ、自分は満たされない。このまま体の充足だけで、我慢できるわけがない。
 イルカの苦しそうな顔が見える。
 そうだ。もっと、苦しんで。俺のことしか、考えられなくなるまで。
 爆発しそうだった。このままだと、殺してしまうかもしれない……。
 そのとき、イルカが言った。
「あの……カカシ先生」
 声がかすれている。ぎりぎりのところで、彼は自分の名を呼んだのだ。
「……どうしました?」
 視線を合わせて、訊ねる。
 言葉を。なにか、言葉を。
 カカシは願った。イルカからの、言葉がほしかったから。
「なんでも……ありません」
 あきらめたように、顔をそむける。辛そうな横顔が震えていた。
 明確な言葉はなかった。が、それでもいい。イルカは、なにかを伝えようとしたのだから。
 カカシはイルカの耳元で囁いた。
「そろそろ、いいですか」
 いつも通りの台詞。しかし、イルカは明らかに安堵したように、視線を落として頷いた。
 カカシはイルカのしなやかな脚を担ぎ上げた。いつものように、奥深くまで入り込む。
 言葉にならぬ声が漏れる。自分の下で妖しくゆらめいている、きれいな体。どれほど傷ついても、その美しさは変わらない。
 もっともっと傷つけて、もっともっと辱しめて、自分だけのものにする。だれにも、なにものにも渡さない。
 たとえ、自分がいなくなっても。
 カカシは、イルカの中に溶けていきたいと思った。




ACT 2〜月船編〜へ続く

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