約束 byつう ACT1 雪濠の中は、暖かかった。 いや、実際は、息すらも凍るほどであったのだが、もうその寒さを感じることもできなかった。 何日、過ぎたかな。 ぼんやりと考える。まったく、あんなに懸念していた任務の方は、ばかばかしいほど簡単に片付いたのに。 雲の国の「草」に偽の情報を流し、国境地帯の布陣を変えさせる。それを五日のうちにやれと言われたときには、さすがに無理だと思った。 その任務をイルカに命じたのは、ほかならぬ火影であった。現職の細作や暗部の者では顔を知られている恐れがある。現場を離れて何年にもなるイルカであれば、工作も比較的容易であると判断したらしい。 「そなた、雲には伝があろう」 火影は言った。それを見越しての下命であれば、否やもない。 たしかに、かつて諜報活動に携わっていたころ、懇意にしていた非合法組織が雲の国にはあった。何年か前に壊滅的な打撃を受けたと聞いていたそれが、いまだ雲の国の中枢にしっかり食い込んでいたことが、今回の任務を成功に導いた。 「黒髪さん。あんた、生きてたのかい」 かつて死地を供にしたその組織のひとりが、雲の国の暗部にいたのである。 表向きの名は、セキヤといった。燃えるような赤い髪と、大地の色を思わせる深い焦色の目をしていた。肌の色も濃く、生粋の雲の国の人間ではないことは一目瞭然だった。 「セキヤってね、『赤也』って書くんだよ」 自分で名付けたらしいその名を、彼はこのうえなく気に入っていた。 「ねえ、黒髪さん。あんた、それで楽しいの」 自分こそ、どう考えても割りに合わない仕事をしているセキヤにそう訊かれ、イルカは答に窮した。 「あらら、ごめんなさいねえ。んなこと、どうでもいいんだよな。あんたには」 けたけたと笑いながら、セキヤは言った。 「あんたは、やるべきことをやってんだからさあ。ふふん。いいよねえ。それで世界が回るヒトはさ」 「どうでもいいなんて、思ってませんよ」 イルカは、やっとのことで答えた。 「ただ……仕事は、楽しいかどうかで評価できるものじゃないですから」 「だーかーらー。そういうの、考えてること自体、楽しくないじゃんか」 セキヤは、ふたたび肩を震わせながら笑った。 「まあ、いっか。おれは、あんたといて楽しいから」 楽しいか楽しくないかで仕事を判断するこの男は、ときにはどう考えても楽しくない仕事ですら嬉々として行なっていた。 「いやあ、もう、ほんとに、予想外の展開で、楽しいったらないねえ」 セキヤは軍の将校を、表現できないまでにした挙げ句に、そう言った。 「黒髪さん、あいつから情報、取りたかったんでしょ。よかったじゃん。勲章もののネタが拾えたんだからさあ」 たしかに、その情報は重要だった。 「この貸しは、いつ返してくれるのかなあ」 セキヤは焦色の目をらんらんと輝かして、言った。 「いまから、カラダで返してくれる?」 「二日以内に、捕縛された仲間を解放するよう手配します」 この情報で、それぐらいの便宜は諮れる。べつに自分の体で解決してもよかったが、それでは組織に対しても木の葉の国に対しても示しがつかない。 「あは。そうきましたか。うーん、やっぱり、黒髪さんだねえ。ますます惚れちゃったよ」 セキヤはけらけらと笑って、イルカの髪ががしがしと撫でた。 そのセキヤが、国境の村にいたのである。 「黒髪さん。あんた、生きてたのかい」 酒場で、セキヤは言った。 「とっくの昔に、『英雄』とやらになったかと思ってたよ」 セキヤはイルカに杯を勧めた。 イルカは躊躇することなくその杯を口に運び、同じ杯に自分の酒を満たしてセキヤに掲げた。 「縁……ですかね」 セキヤは杯とイルカををまじまじと見比べて、 「ふうん。あんた、いい男になったねえ」 杯を取って、一気にあおる。 「これで、いいかい?」 「はい」 イルカは微笑んだ。 「お久しぶりです」 「なんだよ、他人行儀な」 「他人ですから」 「うわー、やだやだ。黒髪さん、いいヒト、いるの」 「は?」 「だってさあ、オレが他人だっていうんなら、他人じゃないヒト、いるんでしょ」 にんまりと、セキヤ。 「他人ですよ。みんな」 「ほんとに?」 「自分以外の人間を、他人っていうんでしょ」 だから、みんな他人。ただ、特別な人はいる。 「あらら、まいったなあ」 セキヤはばさばさと頭をかいた。 「んで、今回は、楽しく仕事、できそう?」 あいかわらず、基準はそこであるらしい。 「仕事が早く片付けば、楽しくなれそうですね」 「ははーん。待ち人がいるっつーことね」 くすくすと、セキヤは笑った。 「黒髪さんとは楽しいこといっぱいしたから、手伝ってあげてもいいけど、ちょっと妬けるなあ。ねえねえ、オレにも、なんか楽しいこと、ない?」 「たとえば、どんな」 「うーん。木の葉の里、一泊二食付き宿泊券とか」 「おれんちでなければ、いいですよ」 「あは。やっぱり?」 セキヤはずいっと、イルカに顔を寄せた。 「あのさあ、そういうこと、オレにしゃべって、まずいとか思わないわけ」 「まずかったら、おれはもう、この世にいないでしょう」 先刻、ここでセキヤの姿を認めた段階で、消されていたはずだ。彼にはそれだけの力がある。一級の上忍レベルの技術が。 「ふふん。成長したねえ、黒髪さん」 満足げに、セキヤは言った。しばらく無言のまま、杯を重ねる。イルカもゆっくりと杯を空けた。 お互いに、何杯かの酒が胃に納まったころ、セキヤがそっと杯を置いた。 「ま、惚れた弱みってことで、よしとするかな」 そして、イルカの任務は滞りなく完了した。 それなのに。 まったく、情けない。 吹雪になった時点で、進むのを止めてビバークすればよかった。早く帰りたい一心で、判断を誤ってしまった。まだ大丈夫だ。もう少し進める、と。 雪を戴く山を越えるルートを選んだのは、自分だった。それが最短距離であったし、いまの時期なら、まだ大きな天候の崩れはないと楽観していたから。 しかし、やはり山の天気は侮れない。あっというまに視界は白く閉ざされてしまい、自分がいま、どこにいるのかさえわからなくなってしまった。 あのとき、吹雪の止むのを待っていれば、すくなくとも、次に進む方向を見失うようなことはなかったのに。 帰りますから。 ほんとうですよ。 ええ。必ず。 指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指切った。 指切った……か。 自由にならない体をかろうじて起こして、イルカは左手を見た。 左手の小指。あのとき、カカシと交わした約束。 心配しないでください。ほんの、十日ほどのことじゃありませんか。 ちゃんと帰ってきますから。 不安そうに見つめるふた色の瞳。安心してもらいたくて、イルカははじめて約束をした。 この世に絶対などない。約束は、いつか破られる。誓いは、いつか崩れる。 そう思って生きてきたけれど、この男がそれを望んでいるのなら、千の誓いでも万の約束でもしよう。 指切りの意味すら知らなかったカカシ。ぽかんとした顔で、まじないの歌を聞いていた。 「針千本だとか、指切った、とか、なんだかすごい歌ですね」 数限りない敵をその手にかけてきた男の言葉とは思えないが、それがこの男の本質である。悲しいまでに無邪気な心と、そこから派生する狂気。 その微妙なバランスが崩れたとき、どんなことになるか。イルカは痛いほどに知っていた。 だから、帰りたかった。あの男のもとに。 白い闇が、あたりを包む。 このままここで朽ちてしまったら、あの男はどうするだろう。この身を探して、探して……。 あきらめきれずに、本当に狂ってしまうかもしれない。 イルカは、ごそごそと這い出した。 ここで死ぬわけにはいかない。どうせ助からないのなら、もっと人目につくところでないと。 こんなところでは、いつ見つかるかわからない。見つからなければ、きっとあの男は、いつまでも探しつづけるだろう。心を壊して。 濠の外は、まだ風が強かった。 目も開けていられぬほどの吹雪の中を、イルカは死に場所を求めて歩き出した。 ACT 2へ |
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