春宵一刻 byつう
砦の結界が、わずかに揺れた。
行ったな。
セキヤは口の端を持ち上げた。
もっと早くに抜け出すかと思っていたが、近侍にだけは事情を打ち明けたらしい。まだまだ甘いねえ、ヒヨコ頭。まあ、そこがおまえのいいとこなんだけど。
遠駆けの術によって、いくぶん結界がずれている。セキヤはこっそりと、それを修復した。
雲の国の忍に気づかれてはならぬ。この大事な会議の最中、五代目火影が砦を離れたなどと。
大きな赤い月が、庭をぼんやりと照らしている。月が想い人への念を募らせたのか。セキヤは窓辺に立って、東の空をながめた。
前年、木の葉の国に五代目火影が誕生した。
砂の国との一触即発の危機を救った「英雄」は金髪碧眼の青年で、人々は九尾を封じた四代目の再来だと噂した。
代替わりした火影のもとには、各国から次々と使者が訪れた。表向きは祝儀のため。が、実際は、五代目の人となりを探り、今後の対木の葉の政策を再考するのが目的であった。
それらの使者に対し、五代目火影は実に誠意ある対応をした。国力や過去の経緯に関わらず、一様に敬意をもって遇し、それぞれの国主への親書を託したのだ。
「相手が付け上がらなければいいんですが」
加煎は冷ややかにそう評した。セキヤもそれには異論をはさむ余地もなかった。外交は最初が肝心だ。なめられたら、どこまでも食い込まれる。
一通り「表敬訪問」が終わったころ。
セキヤたちはその心配が杞憂であったことを知った。年明け早々に、高氏がふたたび自治を獲得したのである。
高氏は砂の国と木の葉の国にはさまれた小国で、長年砂の国の支配下にあった。五年あまり前に自治を認められたが、この一年ほどはまた砂の国に侵食されていたのだ。
その高氏が、再度、立った。前年の、砂と木の葉の攻防が要因であることは容易に想像できる。が、それだけで、いったん傾いだ国がこれほど早くに再建できるはずもない。
砂と木の葉のあいだで、なんらかの交渉が成立したのは明らかだった。
「ヒヨコ頭に、そんな駆け引きができるとは思えないけど」
セキヤは率直な意見を口にした。
「周りにいる者が、うまくお膳立てをしたのでしょうねえ」
加煎は、木の葉の長老や古参上忍の顔を思い浮かべつつ、言った。
「そうそう。先代の腰巾着とか」
醍醐が相槌を打つ。
「うわー、ありがちー」
セキヤは顔をしかめた。
「まあ、それも、五代目が『諾』と言わねば成り立たぬことですが」
淡々と、加煎が語を繋ぐ。
結局は、長たるものの腹ひとつ。最終的な責任は、あのヒヨコ頭が負うことになるのだ。
「んじゃ、そろそろオレたちも挨拶に行かなくっちゃねー」
「へっ……おまえが行くのか?」
「まさかー。砦で雀卓囲むのとはワケが違うでしょ」
木の葉の上忍たちには、セキヤは「朱雀」として面が割れている。雲の国との関係が微妙なこの時期、表に出ない方が得策だ。
「爺に行ってもらうよん。ヒヨコ頭は年寄りと子供に弱いから」
爺というのはセキヤたちの仲間の中では最古参で、すでに古希を迎えている。人当たりの良さは天下一品で、情報収集や交渉にはなくてはならない人物だ。本名を、宗郭という。
「で、うまくいったら、ヒヨコ頭に出張ってもらおうじゃん」
龍尾連山の軍備の縮小。木の葉と雲のあいだでそれが実現すれば、森の国としてはメリットが大きい。
森の国の再興のために、セキヤはひとつひとつ石を積み上げていた。
そして。
森の国の使者を、五代目火影は手厚くもてなした。
「遠路、お疲れであろう。まずは、ごゆるりとなされよ」
おそらく、だれに対しても同じ物言いをしているのだろう。しかし、その言葉の中には、言葉以上のものがあった。
宗郭とて、伊達に年は重ねていない。亀の甲より年の甲と自負している。
この者は面白い。
宗郭は思った。この者には、話を聞きたいと思わせるなにかがある。そして、話を聞いてほしいと思わせるなにかが。
宗郭は歓迎の宴のあいだ、五代目火影と酒を酌み交わした。火影は龍尾連山の砦が平穏であることを、心から喜んでいるようだった。
これならば、策は成る。雲の国との折衝の場を設けさえすれば。
宗郭は確信した。
あれから、ふた月。
木の葉の国と雲の国の会談は実現した。
公式の会談は、じつに四年ぶり。西方の砦を巡って両国が激戦を繰り広げた、あの戦以来のことである。
木の葉の里において「生ける英雄」と称された忍が殉職し、雲の国側も多大な損失を被った龍尾戦役。たったひとつの砦のために、幾多の命が失われた。
無為な戦いであった。否、いくさとは、詰まるところ無為なものなのだ。
会談は、龍尾連山の中ほどに位置する龍央の砦で行なわれた。
当初、森の国がさらに木の葉寄りになることを懸念していた雲の国も、五代目火影が雲の国の伝統や文化を重んじる意向を示してから態度を軟化させた。
雲の国とて、すでに昔年の勢いはない。着実に力を付けてきている木の葉と、要らぬ諍いはしたくなかったのだろう。
連山の砦の、おおまかな布陣はすぐに決まった。細部は事務折衝をしてから、ということで、会談は日の入り前に休止した。
会議が数日に渡る場合、親睦も兼ねて夕食会が催されるのが通例である。が、今回は、いわば前線の砦での会合ということで、それは割愛された。
木の葉の国、雲の国、そして、実質的に砦を管理する森の国の代表たちは、それぞれの房に引き上げたのである。
「なにしてるの」
扉を開ける音とほぼ同時に、聞き慣れた声がした。
「んー。ちょっとねー」
セキヤは窓を閉めた。
「ヒヨコ頭、やっと出かけたみたいよ」
「ほんとに、よかったの」
刃は憮然として、言った。
「こんなときに、逢引の片棒担いで」
「あーら、いいじゃないの。愛は万里を駆けるのよ」
「まさかとは思うけど、そのためにこの会議を仕組んだんじゃないだろうね」
「……それって、加煎の受け売り?」
「期待を裏切って悪いけど、おれでもそれぐらいのことはわかるよ」
「うわー、厳しい現実だねえ」
「はい。もっと厳しい現実」
刃は、ずいっと書類を突き出した。
「なによ、これ」
「あしたの会議の資料。加煎が叩き台を作ったんだよ。内宮の祭主はこれでいいって言ってるけど」
雲の国の特使は祭主と呼ばれる内宮の神官で、加煎の知己らしい。
「だったら、それでいいじゃん」
「加煎は、『朱雀』の決裁を仰いでこいってさ」
「……ほんっと、厳しいねえ。いまから、これに目、通せって?」
「そういうことだね」
「仕方ないなー」
セキヤは書類の束を取り上げた。それをそのまま卓に置き、
「でも、その前に……」
セキヤの手が、刃の腰に回る。
「仕事が先だよ」
ぴしゃりと、刃。
「冷たいのねえ」
「自分の仕事はきっちりやる。それが、決まりだろ」
たしかに、それはそうだが。
今回はいわば裏方。少しぐらい「自分の時間」を使ってもいいはずだ。ヒヨコ頭だって、いいヒトに会うために文字通り飛んでいったわけだし……。
そんなことをつらつらと考えていると、
「あしたの朝食、粥になってもいいの」
とどめの一撃。セキヤはちろりと刃をにらんだ。
「……やなこと言うね」
「だったら、はい」
ふたたび書類が眼前に差し出される。
セキヤはため息をついて、それを受け取った。卓の前にすわって、一枚ずつ確認を始める。
「んー。龍頭は全部、こっちの担当でいいんじゃないの。花の国との国境だけ、木の葉に任せて……そのかわり、龍央は半分譲ってもらうとして……」
ぶつぶつと呟きながら、細かいチェックを入れる。
「こんなもんでいいと思うけど」
全部見終って、セキヤは筆を置いた。
「おつかれさま」
刃はそれをきちんと重ねて、袋に入れた。
「じゃ、届けてくるから……」
そう言う刃の腕を、セキヤが掴んだ。
「なに?」
「仕事は、終わったよ」
「おれの仕事は、まだ終わってない」
「会議が始まるまでに届ければいいんでしょ」
「加煎がもう一度、書き直すかもしれないよ」
「だとしても、朝食のときに持っていけば十分だよ」
牀の幕がふわりと開く。
どうせ、会議は定刻より遅れるはず。
ヒヨコ頭は、無理をしてまでいいヒトに逢いに帰った。きっと後朝の別れを惜しむだろう。だから。
「時間は、たっぷりある」
長い黒髪を束ねている飾紐を解く。書類袋が、音をたてて床に落ちた。
翌朝。セキヤは刃に叩き起こされた。
朝食の時間はとっくに過ぎていた。まもなく、会議が始まる。
「大丈夫だって」
セキヤはあくびをしながら、身繕いをした。刃は真っ青な顔をして、書類袋を拾い上げた。
「先に行く」
いくぶんおぼつかない足取りで、房を出ていく。
調子に乗り過ぎたかな。
昨夜のあれこれを思い出しつつ、セキヤは頭をかいた。まあ、でも、久しぶりにいろいろな顔が見られたし、声も……。
砦の防音設備に感謝しなくちゃね。
とことん不埒なことを考えながら、房を出る。
そういえば、そろそろ定刻だな。そっと会議の行なわれる広間を覗く。
「え……」
セキヤは目を見張った。
そこには、内宮の祭主と宗郭と、五代目火影がいた。
青白い顔。目の下にはくっきりと隈。卓の一点を見据えたまま、会議の開始を待っている。
まいったな。セキヤは苦笑した。ちゃんと間に合うように帰ってきたのね、ヒヨコ頭。
あの様子では、きっと一睡もしていないだろう。それでも時間通りに戻ってきた。やっぱり、黒髪さんのコドモだけのことはあるねえ。
しみじみと感慨に耽っていたとき。
ぱし、と、肩に扇。
「ずいぶんと、ごゆっくりなさっていたようで」
玲瓏な声が、背中で響いた。
「それでよく、五代目が『甘い』などと言えますね」
「加煎……」
「朝食はまだなのでしょう? あとで粥を作って差し上げますね」
このうえなく優雅に、加煎は微笑んだ。
自分の仕事はきっちりやること。
いまさらながらに、セキヤはその「決まり」を深く脳裡に刻み込んだ。
(了)
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