薄氷〜うすらい〜    byつう







 あなたは私を拾った。私の命を、体を、心を、すべてを拾った。
 そして私は、あなたの「もの」になった。あなたのために。それだけのために生きる「もの」に。
 私たちはずっと一緒だった。命が尽きるそのときまで、私はあなたのものであるはずだった。それなのに。
 あなたはひとりで、行くというのか。




 許せない。
 許さない。
 ほかのなにかが、あなたを奪っていくなどと。




 正殿の執務室で、刃は加煎に呼び止められた。
「ひとつ、訊きたいのだが」
 常とは異なる声音。ぱしり、と扇を閉じる音がした。
「……何用にございましょうか」
 侍従姿の刃は、作法にのっとって深々と礼をした。
「いつから知っていた」
「は?」
「とぼけるでないわ!」
 右手が斜交いに振り下ろされた。鋭い音がして、刃の頬に一条の傷がつく。
「いちばん近くにいる貴様が、いままで気づかぬはずはなかろうが」
 加煎は、一枚の紙を卓に置いた。
「ここ数ヶ月、セキヤの体調がすぐれぬとは思っていたが、まさか、こんなことになっていようとはな」
 吐き捨てるように、言う。刃は顔を上げた。
「調べたの」
「当然だろう」
「セキヤが国主だから?」
「馬鹿者。国など、私の知ったことか」
 内務尚書の地位にある者とは思えぬ暴言である。が、それがこの男の偽らざる心境であろう。
 加煎にとっては、セキヤだけが大事なのだ。ほかのことは、たとえ国政に関わることであっても二の次、三の次だろう。
 セキヤが王城にいるから、城を守る。セキヤが森の国の国主だから、まつりごともする。ただ、それだけだ。
「なぜ、黙っていた」
 さらに訊く。刃は無言だった。
「貴様、私を侮っているのか!」
 ふたたび右手が動く。扇の細工を外す、かすかな音。
 一瞬、避けるのが遅れた。まずい。のどに針の先が刺さるかも。
 刃がそう思った瞬間、脇から大きな手がのびてきて、加煎の手首を掴んだ。
「いまさら、言うまでもないけどよ」
 ぎり、とその手首をひねりあげ、扇を取り上げたのは醍醐だった。
「おまえら、本気でやりあうのは、いい加減にやめろ」
「……セキヤの命に関わることでも?」
 加煎は秀麗な顔を歪めて、言った。
「命だと?」
 醍醐は手をはなした。加煎は手首をさすりつつ、
「あなただって、知ってるでしょう。セキヤがいま、どういう状態なのか」
 気づかぬはずはない。セキヤはこの半月あまり、ほとんど常食を摂っていなかった。粥すら滅多に口にせず、栄養剤や医療用の高カロリー飲料などで、かろうじて基礎代謝に必要な熱量を摂取している。
「それなのに、セキヤは私たちにはなにひとつ告げない。こんな理不尽なことがありますか」
 なによりも、セキヤを大切にしているから。だからこそ、すべてを知りたいのだろう。その気持ちは、刃にも痛いほどわかった。
 自分とて、セキヤの病状を一から十まで知っているわけではなかったから。
「もう少し、待ってやろうや」
 醍醐は加煎の背をそっと叩いた。
「俺たちはみんな、セキヤのもんなんだからよ」
 もう少し。
 刃は醍醐の言葉を反芻した。
 はたして、その時間はあるのだろうか。
 残された時間は、あと……。
 日々が同じ速さで進んでいくことが、いまの刃には疎ましかった。





 今年は雪が多い。
 まもなく啓蟄だというのに、王城の庭は夜のうちに降った雪で、一面真っ白だった。
「いまごろ寒紅梅が満開だなんてねえ」
 牀の上で、セキヤは言った。
 さすがに抵抗力が落ちてきたのか、セキヤはこの二日、風邪をひいて寝所に籠もっていた。
「……緑萼は?」
 ぽそりと、訊く。
「まだだよ」
 薬湯を湯飲みに入れつつ、刃は答えた。
 木の葉の里から移植した、緑色の萼を持つ梅の木。セキヤはそれを、ことのほか気に入っていた。
「やっぱりねー。今年は寒いから」
 十年あまり前に五代目火影から譲り受けた緑萼の木は、毎年すがすがしい色の花をつける。その木はセキヤにとって、大切な人の思い出に連なるものだった。
『宝物なんだよ』
 セキヤはそう言って、その人のことを話してくれた。セキヤが仲間以外にはじめて心を許した相手。その人もセキヤに全幅の信頼を寄せ、命を預けてくれたのだという。
『みんな、黒髪さんのこと、大好きだった』
 醍醐も、加煎も。むろんほかの仲間たちも。
 自分はその「黒髪さん」を知らない。が、彼がどれほどあたたかく、やさしく、強い人間であったか、容易に想像できた。
「薬を……」
 薬湯を枕辺に運ぼうとして、刃は眉をひそめた。
 いつもと、微妙に色が違うのだ。薬草の配合を間違えたのだろうか。いや、そんなはずはない。煎じる時間も、数秒と違わぬように計った。加煎ほどではないが、自分も薬については十分知識がある。
 ……加煎?
 刃は、あることに思い至った。
 ゆっくりと踵を返し、いま注いだばかりの薬湯を控えの間の汚物入れに捨てる。湯飲みをそっと手巾に包み、棚の奥に仕舞った。
「なんの真似よ」
 急に声をかけられ、刃は驚いた。すぐうしろに、セキヤが立っている。
 牀の中から窓の外を見ていたので、こちらには気づかないと思っていたのに。
「いくらオレがへたってるからって、妙なことしないでよね」
 焦土色の瞳に、暗い光が宿っている。
「なにをしたの」
 ふたたび、セキヤは訊いた。
「その薬湯……オレんとこに持ってくるはずだったんでしょ」
「調合を、間違えたから」
 とりあえず、答える。これでごまかせるとは、思わないが。
「つまんないこと、言わないのよ」
 片頬をわずかに歪めて、笑う。
「いくらおまえでも、殺すよ」
 本気だ。
 刃は思った。そうだ。セキヤに対しては、爪の先ほどの偽りも言ってはならない。
 刃は手巾に包んだ湯飲みを取り出し、卓の上に置いた。
「試薬を使って確かめてみないとわからないけど」
 自分の思うところを述べる。
「たぶん、この湯飲みは内側に毒が塗ってあると思う」
 無味無臭、無色透明な毒。水か白湯を入れていたら、おそらくわからなかっただろう。が、薬湯の中のなんらかの成分に反応して、わずかに色が変わってしまったのだ。
「なるほど、ね」
 セキヤは目を細めた。
「あいつのやりそうなことだわ」
 くつくつと笑いながら、湯飲みを手に取る。
「……正殿に遣いを」
 抑揚のない声で、セキヤは言った。
「は」
 ひざを折って、拝命する。
「内務と軍務を、これへ」
「御意」
 内務と軍務。すなわち、加煎と醍醐を呼べということだ。
 刃は拝礼して、寝所を出た。





 半時あまりのち。
 寝所では旧知の男たちが顔を揃えていた。醍醐はめずらしく朝衣を着ている。加煎はいつもながらの長衣姿だ。
「どうしたんだ、急に」
 醍醐が、牀に上に胡坐しているセキヤに向かって訊ねた。
「なにかあったのか」
「あったよ」
 セキヤはにんまりと笑った。
「もうちょっとで、閻魔大王とデートするとこだったんだから」
「はあ?」
 醍醐が素っ頓狂な声を出した。
「まさか、刺客が?」
「いーや。外敵じゃないよ。……ね、加煎」
 冷ややかな声。醍醐は横にいる仲間を見遣った。
「……まじかよ」
「オレがまっとうなもん食わなくなったからって、湯飲みに細工するなんてねえ。芸が細かいったら」
「……うまくいくと思ったんですが」
 加煎は、自らの罪を認めた。たぶん、召集されたときから覚悟していたのだろう。
「刃がいなかったら、うまくいったかもね」
 セキヤは刃が、薬湯の色の違いに気づいたことを話した。加煎は口角をわずかに上げた。
「少々、余計なことを教えすぎましたか」
 刃に薬の知識を仕込んだのは、加煎である。
「なにか、言いたいことがあれば聞いてやるよ」
 断罪する前に。
 言外に、セキヤはそう言っている。
 内務尚書を切り捨てることは、森の国にとって痛手である。が、国主の暗殺を企てたとあっては、助命はかなうまい。
 長きに渡り、ともに戦ってきた仲間とはいえ、セキヤが情に流されるとは思えなかった。
「……では、申し上げますが」
 切れ長の目が、セキヤを見据えた。
「なにゆえ病のことを隠していたのです。たしかに、国主の健康状態は機密事項ですが、われわれにまで秘密にすることはないでしょう」
「言って、どうなるのよ。なにも変わらないでしょ」
「少しでも、進行を遅らせることはできたはずです」
「んなことしたって、死ぬときは死ぬんだからさー」
「勝手なことを言わないでください!」
 加煎は叫んだ。
「私たちはあなたの『もの』です。それなのに、ひとりで死ぬなんて……」





 あなたは私を拾った。私の命を、体を、心を、すべてを拾った。
 私たちはずっと一緒だった。命が尽きるそのときまで、私はあなたのものであるはずだった。それなのに。
 あなたはひとりで、行くというのか。



 許せない。
 許さない。
 ほかのなにかが、あなたを奪っていくなどと。



 激しい感情の吐露。セキヤはゆっくりと、牀から下りた。足元がふらついている。頭痛と、風邪による熱の影響だろうか。
「加煎」
 ひっそりと、セキヤは仲間の名を呼んだ。
「おまえ、そんなにつらいの」
 焦色の瞳が哀しげに揺れる。
「だったら、オレがおまえを殺してやるよ。オレが死ぬところを見なくて済むように。それで、いいでしょ」
 小柄の鞘を、そっと外す。
「だから……オレのことは、オレの好きにさせてよ」
 自分は、数限りない命を奪ってきた。無為な殺戮を繰り返したこともある。許されぬ罪。自分ひとりの罪。その報いとして、自分にはこういう最期が用意されたのだ。
「いままで、ずっとそうしてきたんだから」
「セキヤ……」
 加煎は、セキヤと小柄をかわるがわる見た。まばたきもせずに。
 しばらく、だれも動かなかった。風が窓を揺らす音だけが房に流れる。
 最初に動いたのは、加煎だった。
 ひざまずいて、小柄を持つセキヤの手を戴く。
「もったいのうございます」
 声が、かすかに震えていた。
「わたくしなど、御手を汚す価値もない」
 そう言って顔を上げたとき、そこにはいつもの加煎がいた。
「すべて、御心のままに」
 決心をしたのだ。加煎も。
 最後まで、セキヤを見守ると。決して離れないと。
 セキヤは満足そうに微笑んだ。小柄を鞘に戻す。
「刃」
 小柄を預けようと手をのばした、その直後。
 セキヤの体が、大きく傾いた。
「……セキヤ!」
 刃があわてて抱き止める。セキヤは蒼白な顔をして気を失っていた。
 すっかり軽くなった体を牀に運びながら、刃はセキヤの苦しみが、少しでもやわらぐことを願わずにはいられなかった。





   (了)




『散華』1に続く




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