新緑 byつう
きれいよ。
あのとき彼女は言った。
とっても、きれい。
まっすぐな言葉。屈託のない表情。
するりとぼくの中に入り込み、いちばん大事な部分を包んでくれた。
ねえ、青藍。ぼくはきみを、愛してもいいかい。
雷が上忍になった。かつて「生ける英雄」と呼ばれた銀髪の上忍に継ぐ若さだと言う。
彼が森の小屋に居を移してから、ほとんど会っていない。そう。あの日から。
ずっとともに育った弟。託された「うちは」の重みを、ふたりで必死に支えてきた。しかし。
あのとき、確信した。自分たちは道を違えたのだと。雷は雷の道を探して、ひとりで歩き始めたのだと。
いつか、そんな日が来ることはわかっていた。木の葉の里に来たときから。
「どうしたの?」
うしろから、声がした。サクラおばさんだ。
「べつに……。今朝、帰ってきたばかりで、まだ少し眠いんだ」
「だったら、奥で横になってたらいいのに」
縁に、わらび餅の乗った皿が置かれる。
「食べない? おいしいわよ」
「リーおじさんが作ったの?」
「残念でした。これは私の作品。……残したら、承知しないわよ」
「はいはい」
くすりと笑って、箸を取る。
きな粉の香ばしいかおりと、ほのかな甘味。
「……おいしいね」
「でしょ。私だって、これぐらいはできるのよ」
得意げな顔で、言う。
「ほんとは、雷にも食べてほしいんだけど」
さりげなく、続ける。
「あの子ったら、遠隔地の長期任務ばっかり受けるから」
単独の、しかも戦闘任務ばかりの雷のことを、彼女なりに心配しているのだろう。
「いま、一生懸命なんだと思うよ」
自分の中の「うちは」を見極めるのに。いままであえて目を背けていたその力に、相対するだけで精一杯なのだろう。
「そうね」
お茶を飲みながら、サクラは空をながめた。初夏の雲がくっきりと浮かんでいる。
「ところで、風」
「なに?」
「しばらくは、休めるんでしょ」
「うん。水郷寺の門主が代替わりしたからね」
この半年ばかり、木の葉の国と森の国のあいだで雨の国に関する外交政策が微に入り細に渡って話し合われた。結果、雨の国の強行派を封じるために、その後ろ楯になっているであろう水郷寺の門主の首をすげ替えることにしたのだ。
とはいえ、国主と等しい権力を持つ水郷寺である。あちらこちらから手を回し、ようやく門主を退かせたのが、先月のこと。
当初からこの作戦に関わっていた風は、もう何か月もまともな休みを取っていなかった。
「今日はリーさんやアンもこっちで晩ごはんを食べるって言ってたし、久しぶりに賑やかになるわね」
「そうだね」
ひとり、足りないけれど。
その言葉を飲み込んで、風は餅を口に運んだ。
休みは、そう長くは取れなかった。
三日目の朝、風は奥殿に召されて、雨の国への文遣いを命じられた。
「内々に、頼む」
五代目火影は言った。
「水郷寺に波の国からの貢ぎ物が届いたらしい」
波の国は霧の国の傘下にある。この時期、雨の国に近づくには、なにかわけがあるはずだ。文遣いと称して、それを探れということか。
「復命は、森の国へ」
「は?」
「まあ、情報料ということだな」
困ったような顔で、ナルトは笑った。
「ここへは、内務どのから連絡をいただくことになっている」
なるほど。例の鷹を通じて、か。風は納得した。
「ほかに、なにか」
「ない。気をつけて行け」
「御意」
風は一礼して、房を辞した。
結果として、ナルトの心配は杞憂であった。
波の国の船長(ふなおさ)が水郷寺に寄進したのは、じつは新しく門主となった僧侶が、個人的な知り合いであったためらしい。むろん、それを霧の国が利用することはありうる。今後とも、十分な警戒が必要だ。
「今度の門主は海の国の出身だと聞いていましたが」
森の国の王城。正殿の一室で、加煎は眉を寄せた。
「生母が、波の国の人だとか」
風はつい先刻、手に入れた情報を加煎に伝えた。
復命は、森の国へ。ナルトはそう言った。隠し立てをしてはならない。
「そうですか。……では、霧の国になびく確率は低いですね」
波の国も海の国も、霧の国に対してはいい印象を持っていない。いずれの国も、かつて霧の国に侵略された過去を持ち、いまでも多大な影響を受けているから。
森の国が雲の国から独立したように、波も海も、いずれ霧の国から離れるだろう。いざというとき、その活動を支援できるように、地盤固めをしておかなければならない。
「門主が、弱みを握られなければ」
風は意見を述べた。加煎の一重の目が、うっすらと細められた。
「あなたもそう思いますか」
「のぼりつめた者にとっては、どんな些細なことでも致命傷になりうるでしょう」
「まったく。すり傷ひとつでもね」
扇を揺らして、しばし考え込む。風は待った。
要職は退いたとはいえ、いまだに国政に多大な影響力を持つ加煎である。今度のことで、またなにか新しい策を練っているのかもしれない。
「では、すり傷ひとつ、作ってもらいましょうか」
口の端をわずかに上げて、加煎は言った。手元の巻紙に、なにやらさらさらと書き付ける。
霧の国が水郷寺に食い込む前に、門主をこちらに取り込んでしまおうという腹か。清廉潔白の誉れ高い高僧に、なにかしらの疵を付けてまで。
あの門主が、低俗な罠にかかるとは思えない。工作には時間がかかるだろう。前門主を排したとき以上に。
かなり長い文を書き終え、加煎は筆を置いた。
「これを、リー上忍に」
「私信ですね?」
いつものことながら、確認する。
「ええ。返事は、急がないと伝えてください」
これだけの長文だ。リーおじさんひとりだと、読むだけで一刻以上かかるかもしれない。半ば本気で、風は思った。
鷹が文を運んできた日は、リーとサクラが顔を突き合わせて内容を吟味するのが恒例になっている。加煎からの文は流れるような草書体で書かれてあるのが常で、書に詳しくないリーは、サクラにその文面を読んでもらうのだ。
そんなときの二人は、まるでアカデミーの生徒が試験勉強をしているようで、なかなかに微笑ましいものがあった。
「では、これで」
文を懐に納めて、一礼する。いまからなら、朝までに里に戻れるな。そんなことを考えていると、
「邪魔するぞ」
聞き覚えのある声とともに、大柄な男がどかどかと入ってきた。
「なんですか、その格好は」
加煎が眉をひそめた。
「いやあ、風が来てるって聞いたもんで。訓練、ほかのやつに任せて飛んできたんだよ」
武具をつけたままの姿で、醍醐は言った。体中、埃まみれである。
「非常時以外は、正殿に上がるときは装束を整えてくださいと、あれほど申しましたのに。あなたの耳は飾り物ですか」
「悪い悪い。風が帰っちまったらいけないと思ってさ」
「心配しなくても、今夜は寝殿で休んでもらうつもりでした」
憮然として、加煎。
「だったらいいけど……風、ちょっと頼みがあるんだが」
「はい。なにか」
「兵衛府の教官が、火遁のバリエーションを見せてほしいと言っている。差し支えないとこまででいいから、教えてやってくれねえか」
「それは……」
忍が自分の術を他国の者に教授するのは、機密の漏洩にあたる。そんなことは醍醐とて承知のはず。
だが。
あらためて、ナルトの指示を思い出す。復命は森の国に。とすれば、ここにいるあいだ、自分は森の国の利を第一に考えてもいいのだろうか。
「わかりました」
風は頷いた。醍醐は上機嫌で、風の背中を叩いた。
「よーし。んじゃ、行こうか」
大きな手で肩を掴まれ、まるで連行されるようにして、風は部屋を出た。
兵衛府での演習を終えて、風が城に戻ってきたのはもう日もとっぷりと暮れたころだった。
「まったく、もう、親父ってば!」
寝殿で風を出迎えたのは、衛士姿の青藍だった。
「風のこと、自分の息子か部下みたいに思ってるんだから。風も、いやならいやってはっきり言わなきゃダメよ。親父みたいなやつって、甘い顔してるとどこまでも付け上がるんだから……」
一気にそこまでまくしたててから、青藍はぴたりと語を止めた。蒼い瞳が、まじまじとこちらを見ている。
「どうしたの?」
風は首をかしげた。ちらりと自分の服装を確認する。兵衛府で火遁の実演をしている途中で、少し忍服を汚してしまったので、加煎に文官の着物を借りてきたのだが。
「おかしいかな、これ」
「大きくなったわねえ」
「え?」
「背丈のことよ。前に会ったときは、あたしと変わらなかったのに」
いまは、拳ひとつばかり風の方が高い。
「男の子って急に背が高くなるって思ってたけど、風はとくに速いわね」
たしかにこの数ヶ月、ひざの関節が痛むほどのスピードで身長が伸びた。去年のいまごろにくらべると、十センチ以上伸びている。
「それに、なんか声も低くなっちゃって」
「仕方ないだろ。声変わりしたんだから」
「そうねー。もうオトナの仲間入りよね」
くすくす笑って、青藍は風を房に案内した。
「晩ごはん、まだでしょ。一緒に食べましょ」
卓の上には、すでに何種類かの大皿料理が用意してあった。
「今日は薬草粥はないから、安心して」
「みたいだね」
言いながら、風は青藍の腕を取った。
「なに?」
「青藍、仕事は?」
「今日は早出だったから、もうとっくに終わってるわよ」
「そう。じゃ、時間はあるね」
「え?」
銀杏のような丸い目が見開かれる。
風は、青藍に口付けた。
きれいよ。
あのとき彼女は言った。
とっても、きれい。
まっすぐな言葉。屈託のない表情。
するりとぼくの中に入り込み、いちばん大事な部分を包んでくれた。
ねえ、青藍。ぼくはきみを、愛してもいいかい。
「なんの真似?」
床に組み敷かれた状態で、青藍はぎろりと風をにらんだ。
「なにって、接吻したんだよ」
「わかってるわよ。だから、どういうつもりよ」
「接吻するのに、そうたくさん理由があるとは思えないけど」
「あるわよ。いやがらせ、冗談、好奇心、罰ゲーム、その他もろもろ」
「……そんなキスしか、したことないの」
「馬鹿にしないでよ。あたしだって、恋人ぐらい……」
「いるの?」
だったら、あきらめる。今日のところは。
「えっ……いまは、いないけど……」
「じゃあ、ぼくが求愛してもいいよね」
「なに言ってんの。まだ子供のくせに」
「さっきは、大人だって言ったじゃない」
「あれは言葉のあやで……」
わかってるよ。そんなこと。でも、決めてたんだ。ぼくの背がきみを追い越したら、そのときは、きみをもらうって。
目を閉じる。神経を集中して、それを呼ぶ。写輪眼。自分の中に眠る「うちは」を。
目を開けると、鮮やかに彼女が見えた。曇りのない瑠璃色の瞳の中に、紅い眼の自分がいる。
「試してみる?」
「試すって、なにを」
「こんな眼の子供が生まれてくるかもしれないけど」
ふたたび、唇を重ねる。青藍は身じろぎひとつしなかった。
「いい?」
「いやだって言ったら、放してくれんの?」
さらにきつい眼差し。風は微笑んだ。
「うん。ほんとにいやなら」
放すよ。きみがぼくを、要らないと言うのなら。
「……わかったわよ」
怒ったような声で、青藍は言った。
「写輪眼のひとりやふたり、産んでやるわよ。それでいいんでしょ!」
見事な啖呵。やっぱり、きみはすごいよ。
風は青藍を、ぎゅっと抱きしめた。うれしくて。ただ、うれしくて。
「ねえ」
しばらくして、風は訊いた。
「なによ」
ふてくされたように、青藍。
「ひとつ、訊きたいんだけど」
「だから、なによ」
「このあと、どうしたらいいの」
「なんですって?」
がばっ、と、青藍は起き上がった。
「原理はわかってるんだけど、実践したことがないから」
「あんたねえ……」
「写輪眼のひとりやふたり、産んでくれるんでしょ?」
見た目にもわかるほど、青藍はがっくりと脱力した。大きく深いため息をひとつ。
「とりあえず、手、放してくれない?」
「うん」
ふたりは正座をしたような格好で、床の上で向かい合った。
「それから?」
「……寝台に、行きましょうか」
「そうだね」
風は青藍の提案に従った。
森の国の王城で「うちは」の血をひく子供が生まれるのは、それから約一年後のことである。
(了)
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