発露     byつう







 雪が降るかもしれない。
 セキヤはぼんやりと、そんな予感をいだいた。このところ、とくに天候に敏感になったと思う。
 むろん、各地を転々としていたころも、山間の村で自給自足の生活を送っていたときも、ほかの者よりは天気の移り変わりを予測できたが。
 気温が急激に下がると、血管が収縮する。そんな日は、ことさら蟲どもが騒ぎ出す。
 頭の中に巣くう、いまいましい蟲。思考を途切れさせ、行動を制約するその元凶を取り除くことはできないと、すでにセキヤは知っていた。





 政所と呼ばれる国主の執務室。セキヤは卓の前で、ゆっくりとこめかみをさすっていた。こんなことは気休めにしかならない。わかってはいたが、少しでも気を散らしたかった。
 決裁の必要な書類は、まだ山ほどある。これを今日中に片付けてしまわないと、明日はまた明日で新しい書類が事務方から回ってくるのだ。
「具合、悪いの」
 控えの間で決裁の終わった書類を分類していた刃が、幕をずらして声をかけた。いつもは、政務の最中に私語を交わすことはない。その刃が様子を伺うような言葉を発したのだ。よほどつらそうに見えるのか。セキヤは苦笑した。
「ん。少し、な」
 短く答える。自分の話す言葉さえ、頭にじんじんと響く。
「玉璽だけなら、おれがやる」
 刃は卓の側に来た。さいわい、いまはほかの侍従や書記官もいない。
「少し横になったら」
「すまない」
「いいよ、べつに。でも、署名がいるものは手伝えないから」
「わかっている」
 セキヤは仮眠室にもなっている奥の間に入った。履物を脱ぎ、牀の上に身を横たえる。
 ほんの少し、楽になったような気がする。文字通り、「気がする」だけではあるが。
 それでも横になっていれば、少しは体力の回復に役立つだろう。四六時中この痛みと付き合うのは、生半可なことではない。
 頭の奥の、刺すような痛み。セキヤはもう半年ちかく、それに耐えていた。




 最初は、術を使ったあとの頭痛と、軽い目眩だった。
 木の葉の里から帰った直後、いつになく疲れていて、加煎の小言を聞く元気もなく、早々に寝所に引き上げた。そして、その疲れは翌日もとれず、頭痛の起きる回数が増え、間隔も狭まってきた。
 大暑のころには頭痛は慢性化し、さすがに尋常ならざるものを感じて、密かに雲の国の内宮に住む医師に診てもらった。その結果。
 脳に小さな腫物があると告知された。まだごく初期の段階で、当初は外科的処置をすれば快癒するかに思われたが、その摘出のためにさらなる検査をしたところ、現在の技術では切除不可能な場所であることが判明した。
 雲の国は、文化芸術のみならず、医療技術も進んでいる。その雲の国の技術をもってしても、成功率は限りなくゼロに近いという。
 天命であろう。
 セキヤは思った。
 十の年に死んでいてもおかしくなかった自分が、いままで生きられたのだ。いくさばではなく、病に倒れるのは意外だったが、それもまた自分にはふさわしいかもしれない。
 華々しく散るのではない。徐々に弱り、醜く、無様に朽ちていく。幾多の命を奪った身には、相応の死のように思えた。
 皆、来るがいい。そしてこの身を食らうがいい。自分は、その覚悟でずっと生きてきたのだから。
 医師は鎮痛剤や鎮静剤を処方しようとしたが、セキヤはそれをきっぱりと断った。
「そこまでのお覚悟とあれば、もはやなにも申しますまい」
 医師は重々しくそう言って、所見を記した書類を焼却した。
「さて。わたくしも消えねばなりませぬかな」
 国主の病は、最高機密である。それを知って無事ですむはずはないと、医師は考えているようだった。
「そうねえ。ほんとなら、その首、いただくとこだけど」
 セキヤはにんまりと笑った。
「あんたみたいな腕のいいやつを殺すのはもったいないから、特別に見逃してやるよ」
「それは身にあまるお言葉」
 医師は深々と一礼した。
 まったく、腕だけでなく頭もいい。この者なら、なまじなことでは口を割らぬだろう。セキヤはそう思った。
 それが、半年ばかり前。いまはもう年も明けて、まもなく立春である。
「セキヤ」
 小さな声で、刃が呼んだ。
「こっちは終わったから。あとは署名を入れるだけだよ」
「ん。助かった」
 重い体を起こす。
 なにやら、取り次ぎの間がにぎやかになってきた。書記官たちが戻ってきたか、あるいは加煎あたりが政務の監視に足を運んだか。いずれにしても、このままではまずい。
「筆を」
 卓の前にすわって、命じる。侍従姿の刃は、新しい筆を作法にのっとって差し出した。





 夜。
 寝所で、セキヤは何度も寝返りを繰り返していた。外ではちらちらと雪が舞いはじめている。
 しんしんと、雪は降る。あたりの音を吸い取って。こんな夜は、自分の鼓動さえも大きく聞こえる。
 まだ、死ねぬ。死んでなどやらぬ。
 針で突かれるような痛みを感じながら、セキヤは考えた。あと少し。まだ、やり残したことがある。
「……っ!」
 急に、常に倍する痛み。
 腫物がまた大きくなっているのだろうか。件の医師によれば、その腫物は神経のすぐそばにあって、少しでも動いたり大きくなったりすると、痛みが増幅されるらしい。
 セキヤはここに至っても、鎮痛剤を使っていなかった。睡眠薬もしかり。
 これが、自分に科せられた罰なのだと思う。息をするたびに痛みを感じることが。





「……セキヤ」
 薄闇の中、となりの牀から声がした。刃だ。
「なん……だ」
 すんなりとは返答できなかった。息を止めて、痛みと戦っていたから。
「もう、いいだろ」
「え?」
「教えてよ」
 刃は、セキヤの牀に移動した。
「まさか、気がつかないなんて思ってたんじゃないだろうね」
 言いながら、手をのばして腕を掴む。
「だいぶ、悪いの」
「たいしたことは……」
「怒るよ」
 固い口調。
「このひと月、まともに眠っていないくせに」
 ということは、刃も眠っていないことになる。
「薬は? 加煎は知ってるのか?」
「いや」
「どうして」
「もう、遅い」
「遅いって……」
「オレの頭、もうすぐ壊れちゃうのよ」
 わざと軽く、セキヤは言った。
「雲の国の名医の診断よ。手遅れだってさー」
「そんな……」
「まあ、そろそろ頃合なんじゃないの。もっと早くにくたばってても不思議じゃなかったからねえ」
 それは事実だ。
「おまえには世話になるけどさ。まあ、オレみたいなやつに引っかかって、運が悪かったってあきらめてねー」
「あきらめないよ」
 瞬時に、刃は切り返した。セキヤをきつく抱きしめて、続ける。
「あんたが息をしている限り。おれは、あきらめない」
 たとえ、すぐそこまで死が迫っていたとしても。
 体から熱が失われるその瞬間まで、きっと一緒にいよう。それが自分たちが交わした暗黙の約束だから。
 刃の体温が、夜着ごしに伝わってくる。その想いとともに。



 そうだな。最後まで。
 おまえがここにいるのなら、俺もあきらめない。おまえのぬくもりを、こうして感じていられるのなら。



 セキヤは穏やかに微笑んで、刃の背に手を回した。




   (了)




薄氷〜うすらい〜に続く



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