温泉研修〜魔の食欲上忍シリーズ22〜  BY つう







ACT1



 小川のせせらぎ、鳥の声。空はどこまでも青く、木々を渡る風は清々しい。ここは人里離れた山奥の湯治場。老舗旅館の露天風呂である。
 命の洗濯だよなあ。
 イルカは手拭いを頭に乗せて、ふう、とため息をついた。
 ……この男さえいなければ。
「ねえねえ、イルカ先生、ネジ巻きましたから、動かしますよ〜」
 精神年齢五歳、実年齢二十代半ばの銀髪の上忍が、いかにも楽しそうにそう言った。
「ピーちゃん、しゅっぱーつ!」
 ばちゃばちゃばちゃばちゃ……
 黄色いアヒルのおもちゃが、目の前を横切っていく。
「イルカ先生もやってみます?」
「……結構です」
 アカデミーの生徒でも、この類の遊びはしないぞ。イルカは奥歯を噛み締めた。
 だいたい、どうしておれが、こんな子守りみたいなことをしなくてはいけないんだ。そりゃ、若葉温泉一泊二食付き宿泊券は魅力だったが。
「もう一回、行きまーすっ」
 アヒルに頬擦りせんばかりにしてそう言うカカシを横目に、イルカは昨日のことを思い出していた。





 きのうは通常業務で、夕刻まで事務局にいた。受付の仕事を終えて帰り支度をしているところに、髭面の上忍が顔を出した。
「主任さん、いるかい」
「アスマ先生」
 イルカは片付けの手を止めて、立ち上がった。
 あいかわらずの呼称にうんざりしたが、もうそれを云々する気力もない。いくらやめてくれと言っても、「まあいいじゃねえか」と受け流されてしまう。
 アスマいわく「危険人物取扱主任」。危険人物とは、言わずと知れた「コピー忍者」のカカシである。アスマはカカシとイルカの関係を薄々察しているのだ。
「なにかご用ですか」
 とりあえず、営業モードで対応する。
「ん。おまえさんには世話になってるからよ。ほい、これ」
 目の前に、白い封筒が差し出された。
「なんですか?」
「若葉温泉の二食付き宿泊券だ」
「は?」
「あした、上忍の慰労会があるんだよ。特別に、おまえさんを招待してやる」
「はあ、でも、どうして……」
 上忍の集まりに中忍が出席するなど、聞いたこともない。
「ガイが任務の都合で急に出られなくなったんだよ。キャンセルするのももったいないから、おまえさん、代わりに行ってくれ」
 直前のキャンセルは、たしかに損だ。イルカは頷いた。
「わかりました。お供します」
「上には話、通してあるからよ。頼むな」
 ひらひらと片手を振って、アスマは事務局を出ていった。
 頼むって、なんだ。イルカは封筒を手に、首をかしげた。なにげなく、封筒を確認する。中には老舗の温泉旅館のクーポン券が二枚、入っていた。
「……二枚?」
 なんとなく、いやな予感。まさか、これって……。
 イルカは券をポケットにねじ込んだ。不穏な空気と戦いつつ、家に帰る。と、そこには、見慣れた顔が待っていた。
「おかえりなさーいっ」
 カカシである。
 大きな風呂敷包みをかかえて、玄関の前に立っている。
「ずいぶん遅かったんですねえ。俺、もう、一時間も待ちましたよ」
 仕事はどうしたんだ、仕事は。今日は七班の引率で、庄屋の家の畳替えを手伝いに行ったはずなのに。だいたい、まだ報告書をもらってないぞ。
 頭の中で文句を言う。が、これを口に出してはいけない。なにしろ異常に機嫌がいいのだ。ここで滅多なことを言って、波を乱したら大変だ。
「それは、すみませんでした。片付けに時間がかかったもので」
「今日のおかずはなんですか?」
 来た。イルカは冷蔵庫の中身を思い浮かべつつ、
「焼鳥と冷や奴と茄子の味噌汁です」
「うわあ、おいしそうですねえ」
 風呂敷包みを抱きしめて、カカシは言った。
「……それ、どうしたんです」
 おそるおそる、イルカは訊いた。なんとなく、答えはわかっていたけれど。
「え、これですか? だって、待ち切れなかったんですもの〜」
 身をくねらせるのはやめてほしい。
「イルカ先生と旅行に行けるなんて。しかも、お、ん、せ、んっ」
 語尾にハートマークが飛んでいる。イルカはがっくりと肩を落とした。
 要するに、自分はこの男を押しつけられたらしい。なにしろ「危険人物取扱主任」だから。
 クーポン券を受け取ってしまったからには、いまさら断るわけにもいかない。イルカは腹をくくった。
 よし。とりあえず、晩飯だ。カカシは今夜、ここに泊まるつもりらしい。なにがなんでも、満腹になってもらわねば。
 いつもより手早く作業する。飯が炊けるまでの繋ぎに、近所からもらった笹蒲鉾を軽くあぶって出した。
「おいしいですー」
 カカシの声を背に、焼鳥を焼く。
 先日、商店街の鶏肉屋で十本三百五十円のものを五十本買って冷凍しておいたのだ。今日のように突然カカシがやってきたときのことを考えて。
 備えあれば憂いなし。こんなことで備えたくはないが、仕方がない。これもある意味、戦いなのだから。
「いい匂いですねえ」
 カカシが口をもぐもぐさせながら、横に来た。
「カカシ先生も、やってみます?」
 串を返しながら、イルカは訊いた。
「いいんですか? やりますやります!」
 ぱっと目を輝かせて、カカシは焼き網に手をのばした。
「あちっ」
 やると思った。網なんかさわったら、そりゃ熱いよ。
「気をつけてくださいね。じゃ、おれ、味噌汁を作りますんで」
「はーい。がんばりまーす」
 ちょっとぐらいの火傷は、まったく気にならないらしい。鼻唄まじりに次々と串を返していく。
「きつね色に焼けたら、皿に取ってくださいね」
「わかってまーす」
 いい流れが作れたな。イルカは心の中で呟いた。このままうまく事が運べば、なんとか今夜は無事に済むだろう。
 もっとも、「お手伝い」をさせすぎるのは問題だ。いつぞやのように「がんばったんだから、ご褒美くださいよ」などと言われては困る。腹いっぱい食わせて、早いとこ寝かしつけなければ。
 なにしろ、あしたは温泉だ。気力体力、貯えておく必要がある。そのためにも、今日は余計なことはしたくない。
 いつもの倍は熱心に、イルカは調理に取り組んだ。





 結果。
 カカシは焼鳥を三十串と冷や奴一丁、それにごはんと味噌汁を三杯ずつ食べて六畳間で熟睡し、イルカは難を逃れた。
 そして、この状況である。
「よーし。ピーちゃん、試運転完了! イルカ先生、今度はあっちのお風呂に入りましょうよ〜」
 カカシはアヒルのおもちゃを持って、薬湯の方へと向かった。入るなり、またアヒルを浮かべて遊んでいる。
 楽しそうなのはいいが、やはり疲れる。常々、この男の精神年齢は五歳児並みだと思っていたが、行動を司る前頭葉もそのレベルらしい。
 だから、かな。
 ふと思う。だから、この男はまっすぐなのだ。自分の感情に。
 なんのごまかしもない。虚勢もない。ただ、心のままに。
 うらやましいと思うときもある。ひたすらに向けられる瞳。のばされる腕。迷いのないその行動に、なぜか目を奪われてしまう。
 馬鹿なことを。そう思いつつも、結局はこの男の望みを受け入れてしまうのだ。いつも。
「あーっ!」
 いきなり、叫び声。
「なっ……なんだっ?」
 あわてて、屋内に入る。と、そこには。
「流れちゃいます〜」
 ジャグジーの泡の中で、ぐるぐると回っている銀髪の男。いままでのしみじみとした気持ちが、瞬時に消えた。
「なにやってんですか。沈みますよっ」
 腕をとって、引き上げる。仮にも上忍が、温泉のジャグジーで溺れたなんてシャレにもならない。
「ありがとうございますー。いやあ、びっくりしましたよ。俺、温泉ってビギナーなんで……」
 温泉にビギナーもベテランもあるか。こめかみがきりきりと痛む。少し湯当たりしたかもしれない。
「そろそろ、上がりませんか」
「えーっ、俺、まだ全部入ってません」
 黄色いアヒルを抱きしめて、訴える。
「お気持ちはわかりますが、朝風呂もありますし、楽しみは後にとっておいたらどうです」
 そろそろ夕飯の時間だ。のぼせてぶっ倒れたくはない。
「楽しみは後に……ですか」
 ぼそりと呟く。しまった。べつのことを連想させてしまったか。
「そうですねー。いっぺんに楽しんじゃ、もったいないですもんね」
 まずかったかもしれない。が、一度口にした言葉は戻せない。覆水盆に返らず。これ以上、この男を刺激しないようにしよう。
「じゃ、先に上がりますね〜」
 イルカが次善の策を練っている横を、黄色いアヒルのおもちゃを抱いたカカシが通り過ぎていく。
 これぐらいで疲れていてはいけない。このあとのことをシミュレートしつつ、イルカは水風呂の冷水を頭からかぶった。




ACT2へ続く


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