温泉研修〜魔の食欲上忍シリーズ22〜  BY つう







ACT2



 若葉温泉の老舗旅館、常盤屋の夕食は三の膳まである本膳料理で、量も通常よりも多かった。
「ご用がございましたら、なんなりとお申しつけくださいませ」
 武家屋敷の古参女中のような年配の仲居が、慇懃にそう述べて部屋を出ていったあと、ふたりは膳をはさんで向かい合った。
「いただきます」
 イルカは両手を合わせてから、箸を取った。めったに、いや、二度と食べられないかもしれないほどのごちそうだ。せっかくここまで来たのだから、食べなくては。
 黙々とイルカが箸を運んでいるのとは対照的に、カカシは刺身を一口食べただけで箸を置いた。
「……どうしたんですか」
 さすがに気になって、訊いてみた。もしかして、酒を勧めなかったのが悪かったのかな。イルカがそう思って銚子を手にすると、
「おいしくないです」
 拗ねたような口調で、カカシが言った。
「は?」
「俺、イルカ先生の作ったものがいいです」
 あんたねえ……。
 思わず、口を滑らすところだった。危ない危ない。油断大敵だ。
 イルカはゆっくりと息をして、銚子を膳に戻した。
「申し訳ありませんが、ここは旅館です。客であるおれが、厨房に入るわけにはいかないんですよ」
 懇切丁寧に説明する。こんなことは常識だろうが、この男に一般常識や社会通念は通用しない。
 さて、どうするか。このままなにも食べないでいたら、あとからぶり返しが来るのは目に見えている。この男の食欲ともうひとつの欲求とは妙な連鎖をしていて、空腹になるとべつの方法で欲望を満たそうとするのだ。
「俺は、おなかがすいてるんです」
 そう言われて、朝まで執拗に責められたこともある。あんなことは、もうご免だ。
 そういえば。
 ふと、イルカは思い出した。カカシは、イルカが作ったものしか「おいしい」と感じないらしいが、市販のものでも頂きものでも、なにかしら手を加えれば食べていた。笹蒲鉾しかり、おからの炒め煮しかり。
 よし。やってみよう。
 イルカはカカシの膳の刺身にほんの少しワサビを乗せて青ジソでくるんだ。
「こうすると、おいしいんですよ」
 箸でつまんで、差し出す。カカシはそれを、ぱくりと食べた。
 やっぱり。
 イルカは勝利を実感した。なんとも情けない「勝利」ではあったけれど。
「いかがですか?」
「……おいしいです〜」
 なんとなく、涙目になっている。そこまで感激しなくてもいいだろうに。いや、もしかしたらワサビが多すぎたかな。
 いろいろと斟酌しつつ、イルカはカカシに料理を勧めた。
「川魚は、骨を抜くのが難しいんですよ。こうやって尻尾を取って……」
 鮎の塩焼きの骨抜きをしたり、天つゆに大根おろしを混ぜたり、一品一品、手をかける。たいしたことをしているわけではない。それで味が格段によくなることもないはずなのに、カカシはほくほく顔で料理を平らげていった。
「おいしかったです〜」
 膳の上を空っぽにして、しかもイルカの分もいくらか食べて、カカシは至極満足そうだった。
「よかったですね」
 食後のお茶をいれながら、イルカは言った。
 とりあえず、満腹にはなったらしい。第二関門クリア、だな。
 ちなみに、第一関門は温泉だった。どういうわけか、常盤屋の本館にはほかに客がいないらしく、当然風呂場でもイルカはカカシとふたりきりだったのだ。
 まずい。入ってすぐにそう思ったのだが、引き返すわけにもいかない。日の高いうちから、しかも旅館の風呂場で不埒な真似はするまいと思ったのだが、なにしろ相手はカカシである。人が眠っているあいだに夜着を剥ぎ取るような男を、安易に信じるわけにもいかない。
 それゆえ、温泉に入っているあいだは、つねに一定のインターバルを保っていた。むろんカカシがその気なら、多少の距離など問題ではなかっただろうが。
 風呂から部屋に戻る途中で仲居のひとりをつかまえて聞いたところによると、ほかの上忍たちは新館に泊まっているらしい。
「あいにく、お部屋の数が足りませんで、二名さまだけこちらになってしまって。あいすみません」
 いかにも申し訳なさそうに、言う。
 よく訓練されているよな。妙なところで感心した。忍も客商売も、人を欺く(といっては語弊があるかもしれないが)点ではよく似ている。
「このお茶もおいしいですねえ」
「そうですね」
 お茶はかりがねと呼ばれる煎茶だった。若いくきの部分を多く使ったお茶で、低温でじっくりいれるとほのかな甘みがある。
「俺、しあわせです〜」
 ごろりと、膳の前に横になる。これは……。
 ほんの少し、希望を抱く。カカシがこんなふうに横になるときは、そのまま寝入ってしまうことが多いのだ。
 イルカは部屋付きの仲居を呼んだ。古参の者に若い仲居が二人ばかり付いて、手早く膳を片づけていく。
「奥も整いましたので、どうぞごゆっくりお休みくださいませ」
 朝食の時間を告げてから、仲居たちが下がる。イルカは奥の間から掛け蒲団を持ってきて、そっとカカシにかけた。
 しあわせそうな寝顔。あどけなささえ窺える。この男が里を代表する上忍で、数限りない命を奪ってきたなんて。
 長い前髪が寝息に合わせて揺れている。左目の傷。詳しく聞いたことはないが、きっと自分などには計り知れぬほど辛く苦しい過去があるのだろう。
 自分にとっては、わがままで、自分勝手で、どうしようもない男だけれど。
 それでも、こうしているのはなぜだろう。自分の身を削ってもこの男の側にいるのは。
 何度も繰り返してきた問い。それに答えはない。よしんばあったとしても、いまさら明らかにする必要もなかろう。
 おれはあんたを見てしまった。あんたを見つけてしまった。あんたに近づいたのは、おれの意志だった。だから……。
「照れますねえ」
 ちろり、と紅色の左目を開けて、カカシが言った。
「あなたに見つめられると」
「……起きてたんですか」
 まただ。また、やられた。眠っていると思って気を抜いていたこちらが悪いにしても。
「そーんなに熱い視線を送られたら、だれだって目が覚めますって」
 カカシはにっこり笑って、イルカの項に手をのばした。
「おなかもいっぱいになったことですし」
 いつもの台詞。
「いたしましょうか」
 項から肩へ。浴衣がするりと滑る。カカシの長い指が、覚えのあるルートを辿っていく。
 放っておけばよかったかな。
 そんなことを思う。蒲団をかけたまま、さっさと電気を消していればよかったかも。
 まあ、そうしていたとしても、夜中に急襲されたかもしれない。最初のときのように。
「……奥へ、行きませんか」
 カカシの唇を首筋に感じつつ、イルカはかろうじて言った。いくらなんでも畳の上はまずい。うっかり汚しでもしたら、それこそ一部屋全部、畳替えをしなくてはならない。
「そうですね」
 うれしそうに、カカシは笑った。掛け蒲団をかぶったまま奥へと移動する。
 笑顔。どうしたって、自分はあれにかなわない。あの無邪気な心には。
「イルカ先生ー。蒲団、くっつけましたよ〜」
 奥から、楽しげな声。シングルの蒲団をふたつ合わせて、ダブルサイズの寝床を作ったらしい。
 はいはい。いま行きますよ。
 イルカは苦笑して、座敷の明かりを消した。



  (THE END)


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