『狂える椿』


byつう

の章

 雨の国での任務は長引いているようだった。
 火影からの指示によると、七班は来月初旬まで教官なしで任務につくことになっている。ということは、カカシの帰還は早くても来月半ば。
 機械的に仕事をこなしながら、イルカは自分の周りからカカシの「気」が失われていくのを感じていた。
 笑顔も声も体温も、触れてくる指も唇もない。情熱を交わす夜もなく、ひとり寝の床は氷室のようだ。
 会いたい。会いたい。その思いが神経を蝕んでいく。




「休まなくていいんですか」
 ある日、事務局長の政城が勤務日誌に目を通しつつ、言った。
「うみの君だけ、もう二週間以上、休みを取っていないようですが」
「いろいろと、雑用が重なってしまって」
「それは知ってますけどね。休みを潰してまで、しなきゃいけないようなものでもないでしょう」
「休日出勤の届は出していません」
 要するに、サービス残業のようなものだ。特別手当が目的で出勤しているわけではない。ただ、時間を持て余すのがいやだった。夜だけでも、あんなに時間が過ぎるのが遅いのに。
「きみがそんな姑息なことを考えてるなんて、だれも思っていませんよ。ただ、このところ疲れているようだから」
 日誌を閉じて、政城は立ち上がった。
「あしたは一日、休みなさい。これは命令です」
「局長……」
「きみに倒れられたら、事務局は円滑に機能しませんからね」
 わかりましたね、と、さらに念を押す。イルカは仕方なく、「承知」と答えた。





 終業後。どうしても、まっすぐ家に帰る気がしなかった。
 暗い部屋。冷たい空気の満ちた場所。ひとりでいたころは、まったく気にならなかったのに。
 あの男と同じ時間を過ごすようになってから、ひとりであることがどれほど空虚なものなのかを知った。ひとりでは、心も体もあたたかくならない。
 あたためてほしかった。抱きしめてほしかった。夢の中で、イルカはカカシを呼ぶ。来てください。ここに。いますぐに。
 覚えのある愛撫。吐息。からみつく腕……。
 そして、目覚めるとひとり。
 三文小説に出てくる、飽きられた妾のように枕を濡らしている自分。情けなくて、滑稽で、ひとしきり泣き笑いをしたことも幾度かあった。
 気がつくと、枯れたすすきを踏みながら歩いていた。この先には、あの男の家がある。
 行ってみようか。中に入れるかどうかは、わからないけれど。
 カカシが里にいないとき、残り香にも似た「気」を感じるのがつらくて、わざとアカデミーの仮眠室に泊まったこともある。が、もう、そんな段階ではない。
 まさに禁断症状。カカシという麻薬の。
 ほしい。カカシがほしい。ほんの少しでも、あの男の匂いを感じたかった。
 里のはずれにある、古い木造家屋。昔、このあたりを治めていた庄屋の別宅だったという、しっかりとした造りの家。
 玄関や窓には防御結界が張ってある。とりあえず泥棒除け、といった程度の。
 解除することはできる。自分は中忍だが、間者をしていた経験から、結界技についてはいくらかの知識があるから。
 玄関の扉に手をかけて、しばし逡巡する。
 いいですか。あなたの中に入って。いいですよね。このままでは、おれは……。
 印を組もうとした、そのとき。
「よお」
 背後から、低音の声。
「……隊長」
 月明りの下、髭面の元上官が立っていた。煙草を口の端にくわえた、いつもの格好で。
「どうして……」
「おまえさん、あしたは休みだろ。だから一緒に飲もうと思っておまえさんちに行ったんだよ」
 ひょいと、一升瓶を差し出す。
「けど、いなかったからさ。もしかしたら、ここじゃねえかと思ってね」
 まただ。いつも、アスマにはわかってしまう。心が弱っているとき、自分がどういう行動をとるのかを。
 中忍になってからずっと、この男は自分を見ていた。よこしまな気持ちからではなく、ただ、ひっそりと。
「イルカ?」
 訝しげに、アスマはイルカの顔を覗き込んだ。
「隊長……」
 目の前にある体温に、体を預ける。
 あたたかかった。木立ちを吹き抜ける冬の風の中にあって、その胸はあたたかかった。
 駄目だ。もうひとりの自分が告げる。こんなことをして、どうするのだ。この男はカカシじゃない。おまえが求めている相手ではないのに。
 わかっている。血を吐くように叫んだ。そんなことはわかっている。それでも、触れたかった。氷のような心を解かしてほしくて。
 アスマは動かなかった。煙草をくわえたまま、ぴくりともしない。
 しばらくして、アスマは煙草を手に取った。足元に投げ捨てて、踏み消す。大きな手がイルカのあごにかかった。
「本気かよ」
 薄い色の眼が間近に迫る。
 本気? なにが? おれは、ぬくもりがほしいだけ。
「馬鹿だねえ」
 がっしりと頭を掴み、分厚い胸に押しつける。イルカは両手をアスマの背に回した。
 はらり。
 白いものが、視界に入った。はらり。はらり。
 雪だった。今年、最初の雪。その雪の向こうに、濃い緑の椿の木が見えた。
「あ……」
 あるはずのない赤い花が、闇の中に浮かんでいた。凛とした、一重の椿。
 その幻の花が、ゆっくりと枝を離れる。



 落ちていく。
 あなたから離れて、土の上へ。
 夜のしじまに、かそけき音のみ残して。



 壊れた。
 漠然と思った。おれは壊れてしまった。
 もう戻れない。もう、あの男に満たされることはない。
「行くか」
 ぼそりと、アスマは言った。
「いくらなんでも、ここでおまえさんを抱く気にゃなれねえよ」
 たとえ、カカシの結界を解くことができるとしても。
「俺んちに来い」
 肩を抱いて、歩き出す。一歩一歩ゆっくりと、しかし確実に。
 カカシの匂いが遠ざかる。北風が頬をなぶっていく。
 月が雲に隠れた直後。耳のすぐ側で低い声が聞こえた。
 遠駆けの術の口呪。イルカは、目を閉じた。





十の章へ続く

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