『狂える椿』
byつう
九の章
雨の国での任務は長引いているようだった。
火影からの指示によると、七班は来月初旬まで教官なしで任務につくことになっている。ということは、カカシの帰還は早くても来月半ば。
機械的に仕事をこなしながら、イルカは自分の周りからカカシの「気」が失われていくのを感じていた。
笑顔も声も体温も、触れてくる指も唇もない。情熱を交わす夜もなく、ひとり寝の床は氷室のようだ。
会いたい。会いたい。その思いが神経を蝕んでいく。
「休まなくていいんですか」
ある日、事務局長の政城が勤務日誌に目を通しつつ、言った。
「うみの君だけ、もう二週間以上、休みを取っていないようですが」
「いろいろと、雑用が重なってしまって」
「それは知ってますけどね。休みを潰してまで、しなきゃいけないようなものでもないでしょう」
「休日出勤の届は出していません」
要するに、サービス残業のようなものだ。特別手当が目的で出勤しているわけではない。ただ、時間を持て余すのがいやだった。夜だけでも、あんなに時間が過ぎるのが遅いのに。
「きみがそんな姑息なことを考えてるなんて、だれも思っていませんよ。ただ、このところ疲れているようだから」
日誌を閉じて、政城は立ち上がった。
「あしたは一日、休みなさい。これは命令です」
「局長……」
「きみに倒れられたら、事務局は円滑に機能しませんからね」
わかりましたね、と、さらに念を押す。イルカは仕方なく、「承知」と答えた。
終業後。どうしても、まっすぐ家に帰る気がしなかった。
暗い部屋。冷たい空気の満ちた場所。ひとりでいたころは、まったく気にならなかったのに。
あの男と同じ時間を過ごすようになってから、ひとりであることがどれほど空虚なものなのかを知った。ひとりでは、心も体もあたたかくならない。
あたためてほしかった。抱きしめてほしかった。夢の中で、イルカはカカシを呼ぶ。来てください。ここに。いますぐに。
覚えのある愛撫。吐息。からみつく腕……。
そして、目覚めるとひとり。
三文小説に出てくる、飽きられた妾のように枕を濡らしている自分。情けなくて、滑稽で、ひとしきり泣き笑いをしたことも幾度かあった。
気がつくと、枯れたすすきを踏みながら歩いていた。この先には、あの男の家がある。
行ってみようか。中に入れるかどうかは、わからないけれど。
カカシが里にいないとき、残り香にも似た「気」を感じるのがつらくて、わざとアカデミーの仮眠室に泊まったこともある。が、もう、そんな段階ではない。
まさに禁断症状。カカシという麻薬の。
ほしい。カカシがほしい。ほんの少しでも、あの男の匂いを感じたかった。
里のはずれにある、古い木造家屋。昔、このあたりを治めていた庄屋の別宅だったという、しっかりとした造りの家。
玄関や窓には防御結界が張ってある。とりあえず泥棒除け、といった程度の。
解除することはできる。自分は中忍だが、間者をしていた経験から、結界技についてはいくらかの知識があるから。
玄関の扉に手をかけて、しばし逡巡する。
いいですか。あなたの中に入って。いいですよね。このままでは、おれは……。
印を組もうとした、そのとき。
「よお」
背後から、低音の声。
「……隊長」
月明りの下、髭面の元上官が立っていた。煙草を口の端にくわえた、いつもの格好で。
「どうして……」
「おまえさん、あしたは休みだろ。だから一緒に飲もうと思っておまえさんちに行ったんだよ」
ひょいと、一升瓶を差し出す。
「けど、いなかったからさ。もしかしたら、ここじゃねえかと思ってね」
まただ。いつも、アスマにはわかってしまう。心が弱っているとき、自分がどういう行動をとるのかを。
中忍になってからずっと、この男は自分を見ていた。よこしまな気持ちからではなく、ただ、ひっそりと。
「イルカ?」
訝しげに、アスマはイルカの顔を覗き込んだ。
「隊長……」
目の前にある体温に、体を預ける。
あたたかかった。木立ちを吹き抜ける冬の風の中にあって、その胸はあたたかかった。
駄目だ。もうひとりの自分が告げる。こんなことをして、どうするのだ。この男はカカシじゃない。おまえが求めている相手ではないのに。
わかっている。血を吐くように叫んだ。そんなことはわかっている。それでも、触れたかった。氷のような心を解かしてほしくて。
アスマは動かなかった。煙草をくわえたまま、ぴくりともしない。
しばらくして、アスマは煙草を手に取った。足元に投げ捨てて、踏み消す。大きな手がイルカのあごにかかった。
「本気かよ」
薄い色の眼が間近に迫る。
本気? なにが? おれは、ぬくもりがほしいだけ。
「馬鹿だねえ」
がっしりと頭を掴み、分厚い胸に押しつける。イルカは両手をアスマの背に回した。
はらり。
白いものが、視界に入った。はらり。はらり。
雪だった。今年、最初の雪。その雪の向こうに、濃い緑の椿の木が見えた。
「あ……」
あるはずのない赤い花が、闇の中に浮かんでいた。凛とした、一重の椿。
その幻の花が、ゆっくりと枝を離れる。
落ちていく。
あなたから離れて、土の上へ。
夜のしじまに、かそけき音のみ残して。
壊れた。
漠然と思った。おれは壊れてしまった。
もう戻れない。もう、あの男に満たされることはない。
「行くか」
ぼそりと、アスマは言った。
「いくらなんでも、ここでおまえさんを抱く気にゃなれねえよ」
たとえ、カカシの結界を解くことができるとしても。
「俺んちに来い」
肩を抱いて、歩き出す。一歩一歩ゆっくりと、しかし確実に。
カカシの匂いが遠ざかる。北風が頬をなぶっていく。
月が雲に隠れた直後。耳のすぐ側で低い声が聞こえた。
遠駆けの術の口呪。イルカは、目を閉じた。
十の章へ続く