『狂える椿』
byつう
八の章
雨の国の国主は、ただ人がよいだけの凡庸な人物である……というのが、世間一般の見解であった。
「あれのどこが凡人よ」
国主の居城を出て、カカシはため息をついた。
「能ある鷹は爪を隠す、といったところでしょうね」
木の葉の文官に化けた煉が、苦笑しつつ言う。
「なーんか、やな感じ」
雨の国は森の国の南にある小国だ。過去、何度か霧の国に侵略されたことがあるが、いまは独立国家として南洋貿易の拠点となっている。
「ちょっとつつけば、簡単にルートを提供してくれると思ったんだけどねえ」
森の国への援助物資。それを木の葉の国から直接、森の国へ送るわけにはいかない。それゆえ、雨の国を経由しようと画策していたのだが。
「また霧の国とつるみましたかね」
「いーや。それはないでしょ。過去の恩讐ってのは、そう簡単にぬぐえるもんじゃない」
「ならば……」
「雲でしょ」
「やはり」
煉は唇を噛んだ。
「どんな条件を出したと思います?」
「んー。まあ、手っ取り早い線だと霧忍駆除かな。雨の国は、自分ちだけで国境を全部ガードできるほど兵力ないから」
「しかし、それだと今度は雲に付け入られてしまいますよ」
ようやく霧の国の支配を脱したというのに、またぞろ大国の介入を受けるのは雨の国とて不本意だろう。
「そうだねえ。だったら……やっぱり、商業権の独占じゃないの」
雲の国から南方への貿易ルートは、現在、波の国と海の国を経由している。それを雨の国が独占すれば大量の物品が流通し、経済効果は計り知れない。
「商売人の力は侮れないからねえ。あの国主の首を縦に振らせるのは、思ったより大変だよ」
このぶんだと、里に戻るのはだいぶ遅れそうだ。
大丈夫だろうか。あの人は。十日ほどだと言ってしまった。安心させたくて。
「……でどうです」
すぐ横で、煉の声。しまった。聞いていなかった。
「はたけ殿?」
「悪い。考え事をしてた」
「……大事な人のことですか」
翡翠色の目を細めて、煉は言った。
「まあね」
「もしかして、もう子供もいたりします?」
ほんの少し、十年前の表情が現れた。好奇心旺盛ないたずらっ子の。
「残念ながら」
心の中で苦笑しつつ、答える。
「あなたにそんな顔をさせるなんて、どんな人なのか興味がありますね」
「ご同業だよ。アカデミーの先生」
「職場結婚ですか」
完全に誤解している。
「結婚は……してないけど」
なんとかぼかして言う。
「どうしてです。危険な仕事をしているから?」
「まあ、イロイロあってね。そんなことより、さっきの話は?」
ここでイルカのことを説明するのは面倒だ。
「ああ、そうですね」
煉も表情を引き締めて、今後の作戦を述べ始めた。
「下から突き上げてみたらどうかと思いまして」
「下から?」
「商人の力は、たしかに侮れません。だからそれを逆手に取れば、国主の考えを変えさせることができるかも」
雲の国から物品が流れることの利点は否定できない。が、それによるデメリットは必ずある。その部分を強調して、雲の国との取り引きは泡相場のようなものだと納得させれば、商人たちは国主に反対するだろう。
「なんか、コネでもあるの。天升さんみたいな」
「ええ。心当たりは、いくつか」
「じゃ、決まりだね。段取りは」
「今夜中に根回しをしておきますから、はたけ殿はその旨、三代目に報告を」
「へっ。俺、もう用なし?」
「まさか」
くすりと、煉は笑った。
「……心配なのでしょう? 大事な人のことが」
だから一度、里に戻れというのか。カカシは口の端を持ち上げた。
「気持ちはうれしいけどね。いまは任務中だよ。そんなことはあの人だってわかってる。……いや、わかってなくちゃいけない」
そうなのだ。心の均衡を欠いているイルカに、それを望むのは酷かもしれない。それでも。
気づいてほしい。自分がどんなに希有な存在なのかを。九尾の襲来を経験し、忍として数限りない修羅場をくぐり、時限印の呪縛さえはねのけた。死のいちばん近くにいながら、いままで生き残ったのだから。
玄は生き残れなかった。煉の、父親は。
「私が、殺しました」
あのとき煉は言った。天升の別宅で、茶を点てたあと。
「おまえが、玄を」
「はい」
粛々と、煉は事情を説明した。
玄は一時期、雲の国の捕虜になっていたらしい。そしてそのとき、雲忍のひとりに時間を置いて発動する術をかけられた。森羅の者にも解けぬ強力な術を。
いつ発現するかわからぬそれに神経をすりへらしながらも、玄はその後も働いた。やがて五年が過ぎたとき。術は発動した。
里の中で、玄は無差別に仲間を殺していったという。雲の忍が使う高度な技を次々に繰り出して。
「もしかして、時限印か」
暗部研究所のシギが言っていた。森の国の忍で、時限印を使われた者がいた、と。まさか、それが玄だったとは。
「よくご存じですね」
ひっそりと、煉。カカシは頭をかいた。
まいったな。一歩間違えていたら、自分は煉と同じことをしていたかもしれないのだ。
愛する者を手にかける。この世でもっともむごいことを。
「潜在期間が五年でよかったですよ」
煉は、ゆっくりと続けた。
「もし一年でも短かったら、私は父を止められなかったでしょう」
どちらがましだろう。殺されるのと、殺すのと。
否、いずれにしても悲惨なことには違いない。命のやりとりをするのが忍のさだめだとは言っても。
その話を聞いて、ようやくカカシは納得した。煉の印象が以前とまったく変わったのを不思議に思っていたから。
里と仲間を守るためとはいえ、さぞつらかっただろう。よく耐えた。よく、逃げなかった。
この男なら信頼できる。十年前の誼みだけではない。義のために情を殺した、この男なら。
カカシはそう判断した。そして、森羅と木の葉の橋渡しを承知したのだ。
いま、自分は重要な仕事を任されている。現場を離れるわけにはいかない。どんなにあの人のことが心配であっても。
「報告は、遠話で十分だよ」
カカシは断言した。
「俺はもう一度、城を探ってみる。夜明けに落ち合おう」
「わかりました。ご武運を」
「おまえもな」
短く答え、片手を上げる。
薄闇の中、ふたつの影が空に散った。
九の章へ続く