『狂える椿』


byつう

六の章

 いつぞやとはまた違った意味で、イルカは弱っていた。
 アスマから聞いたところによると、文庫で倒れて二日ばかり医療棟で療養していたらしいが、検査の結果、身体的にはなんの問題もなかったそうだ。
 先月、半月ばかり里を空けたときとくらべて、とくにやせた様子はない。が、明らかに精神の均衡を欠いている。
「いやです」
 何度目になるかわからぬ、その言葉。
「まだ……」
 離れないでほしい。ここにいてほしい。もっと与えてほしい。
 濡れた瞳から、震える唇から、すがりつくような指から、その思いが流れ込んでくる。
 わずかに肌の隙間ができるのにも異を唱え、ようやく呼吸が落ち着いたかと思うと、さらなる熱を望む。カカシがやんわりと制すると、能動的な行為に訴えてまで、それを求めた。
 拒めなかった。この人を追い込んだのは自分だったから。
 イルカの舌がその部分を絡め取る。うっとりとした表情。まるで、薬物に溺れた中毒患者のような。
 意識的に距離を置いたのは、間違いだったのかもしれない。この人の不安を増長させてしまったのだから。しかし。
 もう、時間がない。森の国の独立に向けて、木の葉の国と森羅が連携を取るようになれば、おそらく自分は森の国に派遣されるだろう。そうなれば、里にいる時間は激減する。
 そのとき、この人はどうなるのだろう。俺を待って。待って……。
 狂うだろうか。壊れるだろうか。九尾のときと同じように。いや、それよりもさらに激しく。
「……!」
 言葉にならぬ声。うわ言のように唇から漏れる。熱くて。背を抱く腕も、口付けも、もちろん奥深く導く場所も。
 一刻でも早く安息を与えたくて、カカシはイルカを喰らいつくした。





 花の国の豪商、天升が七星窯の名品「羅刹」と引き換えに引き合わせた人物は、森の国を陰で支えているとまで言われる忍の一族、森羅の直系のひとりだった。
「おまえ……もしかして、煉か」
 茶人姿の青年に、カカシは言った。
「はい。……お久しゅうございます」
 あらためて、青年は一礼した。
「あのとき、あなただとわかっていれば、もっとましな戦い方をしたのですが」
 ひと月ばかり前の攻防。カカシは木の葉の間者を逃がすために、自ら囮となって森羅の忍の前に飛び出した。そして。
 カカシは腕と脇腹に傷を負い、煉も肋骨を骨折したらしい。もっとも、二人とも一流の忍である。その折りの傷はすでに快癒していた。
「もののふ(武者)じゃあるまいし、いちいち名乗りを上げて戦うわけにはいかないからねえ。ま、仕方ないだろ」
 カカシはひざを崩した。
「はーっ。つっかれた。天升さんのご紹介だっていうんで、かーなり緊張してたんだけど、おまえなら寝っ転がっててもいいよな」
「……前とは事情が違いますが」
「そうだっけ?」
「十年ひと昔、ですよ」
「だったら、おまえがここに来るわけないだろ」
 にんまりと、カカシは笑った。
「相手が俺だから、おまえが来た。違ってたら、金二枚」
「二枚、いただきましょうか」
「へっ? ハズレなの」
「本当なら……父が来るはずでした」
 煉はしみじみと、そう言った。
「父はよく、はたけ殿の話をしていましたから」
「玄が?」
「はい」
 玄は、忍であると同時に優秀な薬師であった。
 当時、カカシは写輪眼を移植した直後で、まだそれを十分に使いこなせてはいなかった。不完全な技は諸刃の剣である。雲の国の忍と対峙したとき、カカシは写輪眼を完全に開くことができず、力を暴発させてしまったのだ。
 実際のところ、そのとき死んでいても不思議ではなかった。制御の効かぬ術ほど厄介なものはない。敵もろともに、自らを滅する可能性もあったのだから。
 その危機を救ったのが、森羅の忍である玄だ。
『そなたの命は、私が預かった』
 薬草を煎じながら、玄は言った。
『ゆえに、心置きなく養生せよ』
 森羅の中には、写輪眼だけ残して処分せよという意見もあったらしい。が、玄はそれを退けた。
『おのれをも傷つけてしまうような写輪眼など、森羅には要らぬ。どうせなら、完璧に仕上がってから頂戴するとしよう』
 要するに、食べ頃になるまで放し飼いにしておけ、ということか。
 よくよく考えてみれば、その方がよほど恐ろしいのだが、カカシは玄を信じた。少なくとも、いま命を取られることはない。だから玄の言う通り、心置きなく治療に専念しよう、と。
 結局、カカシは約十日、森羅の里に滞在した。その間、おもにカカシと森羅の忍との連絡役を勤めていたのが、煉だった。
 好奇心旺盛な、いたずらっ子。それがカカシの、煉に対する印象だった。おとなしそうな顔をしていながら、なにかと周りをひっかき回すような。
 忍としての力はまだまだ発展途上で、上忍並みの術を使えるかと思えば、基礎的な技を失敗する、といった状態だった。
「木の葉の忍って、みんな、あなたみたいなんですか」
 カカシが玄に拾われて、三日目。朝餉を運んできた煉が言った。
「俺みたいな、って?」
 味噌汁をすすりながら、訊く。
「緊張感がない」
「おまえねえ……」
「父上が言ってました。底無しの馬鹿か、底の知れない大物だって」
「はあ、そうですか」
 カカシは苦笑した。
「大物だよー。未完の大器ってやつ」
「ずいぶんな自信ですね」
「そーゆーおまえも、よっぽどのバカか腹黒の策士だよな」
「……なぜです」
「身内の情報、流してどうするよ。俺みたいな余所もんに」
 ぐっと、煉が詰まった。
 バカの方だったのね。くすくすとカカシが笑っているところに、玄が薬湯を持ってやってきた。
「だいぶ、よくなったようだな」
 どろどろとした液体の入った湯呑みが置かれる。
「やーっと、あの薬草粥から解放されたと思ったのに」
 ため息まじりに、カカシは言った。
 じつは、前夜まで毎食、やたらと臭いのきつい薬草の入った粥を食べさせられていたのだ。もっともそのおかげで、消耗した体力も気力も見事に回復したのだが。
「今度は、なに」
「精神を安定させ、集中力を高める効果のある野草を煎じた」
 ひとくち飲んでから、カカシに渡す。
「その眼を律するのに、役立てばよいのだが」
「玄……」
 ふところに入れた者には、とことん親身になる。排他性が高いとされている森羅の一族の、違った一面を見たような気がした。
「それで、玄は?」
 あらためて、カカシは訊いた。なにか、いま玄が動けないような事態が起こっているのだろうか。
 カカシの問いに、煉は翡翠色の目を見開いた。
「ご存じではなかったのですか」
「え?」
「父は、すでにこの世にはおりません」
 淡々と、事実を述べる。
「……そうか。死んだのか」
 あれから十年。忍であれば、日々、命の危険に直面している。鬼籍に入っていたとしても、不思議ではない。しかし……。
 カカシは先刻見た、香合の中の密書を思い出した。あの手蹟は、間違いなく玄のものだ。
「それなら、あの書状は……」
「父が生前に書き残したものです。いずれ、木の葉と誼みを通じる必要性が出てくる、と」
 先見の明があったということか。それにしても、つくづく惜しい。
「で、玄はいつ?」
 それを訊くと、煉はわずかに眉を寄せた。
「三年ばかり前に」
 固い声。
「私が、殺しました」
 懺悔のように、煉は言った。






七の章へ続く

戻る