『狂える椿』
byつう
五の章
カカシは、まだ帰ってこない。
医療棟から事務局へ向かいながら、イルカは考えていた。
文字通り身命を賭して時限印を滅し、自分を救ってくれた男。強い腕とやさしい笑みと、あたたかい抱擁をくれた。
それで自分は安心した。カカシが側にいれば、間違いなく明るい朝が来ると信じられた。それなのに。
この不安はなんなのだろう。ほんの少し、あの男の訪れが間遠になっただけで、自分は夢魔に怯える子供のようになってしまった。
情けない。これでは、以前よりひどいじゃないか。死なないためだけに生きていたころよりも。
『生きろ』
あの言葉の呪縛から解き放ってくれたのは、カカシ。
『生きていてほしい』
そう言って、手をのばして。イルカはカカシの手を取った。その手をはなすことは、もうできない。
昼休み前の事務局は、任務内容の確認や演習場の予約をする者たちで混雑していた。
「あれえ、おまえ、もう出てきていいの」
同僚が椅子から立ち上がって、言った。
「今朝、退院したばかりだろ。いくらなんでも、今日一日は休むと思ってたよ」
「事務方はただでさえ人手不足なんだ。家で寝てる気にはなれないよ」
イルカは自分の席に着いて、報告書のファイルを引っ張り出した。
「森羅の件は、どうなった」
「きのう、諜報局がここ五年ばかりの調書を根こそぎ持ってった」
「文庫の資料も?」
「ああ。また森の国に探りを入れるつもりらしいな」
内紛に介入して、なんらかの利を得るつもりか。あるいは本気で、独立を支持するのか。いずれにしても、おちおち休んでいられない。
とりあえず、いまできることをしよう。あの男のことを考えるのは、あとだ。
イルカは仕事に没頭した。
カカシが帰還したのは、それからさらに二日のちのことだった。
花の国との国境から木の葉の里までは、忍の足なら一昼夜の距離だ。したがって、カカシは約三日、花の国で遊んできたことになる。
噂によれば、火影から厳重注意を受けて、俸給の一部を罰金として召し上げられたらしい。といっても、本人はいたって呑気なもので、火影に花の国の土産だと言って螺鈿の香合を献上したそうだ。
噂の主は、例によってアスマである。
「いつもながら、見てきたような話ですねえ、アスマ先生」
事務局長の政城が、応接間で茶を飲みながら言った。
「見てきたんだよ、この目で」
紫煙を大きく吐いて、アスマが答えた。
「今日はちょっくら本殿に用があったからさ。朝いちばんに出かけていったら、めずらしくカカシのやつが表方にいて……」
火影の館は政務を執り行なう本殿と、私邸である奥殿に分けられる。表方というのは本殿の庶務を行なう部署で、いわば館の窓口であった。
「いつも勝手に奥殿に出入りしてるやつがどうしたんだと思ってたら、今回の遅参の言い訳をしに来てたみたいでねえ。正装までしてたよ。まったく、仰々しいことで」
上忍二人が話しているのを聞いて、イルカは複雑な心境になった。
帰っていたのだ。朝のうちに。それなのに、カカシは来なかった。任務の前も、後も。
あの男の中で、だんだんと自分の存在が希薄になっているのだろうか。もしかしたら、このまま消えてしまうかも。
そんなことを考えていると、また息が苦しくなった。いけない。あのときと同じだ。文庫で倒れたときと。
まずい。このままでは、また……。
ぐっと拳を握り締める。肺に空気を送り込もうと、意識的に息をした。そのとき。
「あれえ、どうしたんですか?」
のんびりとした声が聞こえた。びくりと体が震える。
「イルカ先生ってば、恐い顔して。あ、もしかして、俺が三代目にしこたま叱られたの、もう耳に入っちゃったのかなー」
「もしかしなくても、みんな知ってるぞ」
衝立の向こうから、アスマがひょいと顔を出した。
「あーらら。やっぱり? さっき、おまえの顔見たときから、いやーな予感はしてたんだけどねえ」
「他人のカネで遊んできたやつが、なに言ってる」
「そのぶん、三代目に巻き上げられたよー」
「自慢になるか」
アスマは煙草をくわえたまま、ふん、と鼻先で笑った。
「それで、おまえ、報告書は書けたのか? ガキどもに、自分が帰ってから提出するって言ったらしいが」
「あ、もっちろーん。はい、イルカ先生」
カカシはイルカに書類を差し出した。
「日時も場所も完璧でしょ」
にこにこ顔のカカシをちらりと見遣って、イルカは報告書を受け取った。たしかに、過不足なく書けている。しかし、この文体は……。
「カカシ先生」
「はい」
「天升どのの荷車に積んであった荷の総量は?」
「は? ええと……」
「ご自分でお書きになったのでしょう?」
「はあ、まあ、そうなんですが」
「だったら、覚えていらっしゃるはずですね」
「国境ちかくの市で、いくらか売ったから……」
「売却した数は?」
「うーんと、いくつだったかな」
「要するに、わからないんですね」
「……はい。すみません」
上忍をやりこめる中忍。事務局ではおなじみの光景である。よって、だれも気にしない。
「サクラに下書きしてもらって、それを写したんですよー。だから、細かいところまで覚えてなくって」
やっぱり。
イルカはため息をついた。部下に、しかも下忍に書類の書き方を教えてもらってどうする。
とりあえず、確認印を押す。
「おつかれさまでした。たしかに、受領しました」
事務的に言って、ファイルに仕舞う。
呼吸は楽になっていた。カカシと会話する。たったこれだけのことで。
会話といっても、ふたりきりのときのような親密なものではない。聞きようによっては、口論ともとれる内容なのに。
「イルカ先生」
ずいっと、カカシが顔を近づけてきた。思わず、上体を引く。
「なんですか」
「久しぶりに、晩飯食いにいきませんか。おごりますよ」
久しぶりに。
本当に、そうだ。イルカは先刻とは違う胸の痛みを感じた。
「……はい。お供します」
声が震えていた。だれかに気づかれただろうか。いや、皆それぞれに忙しい。こちらに注目している者はいなかった。アスマのほかには。
小さく肩をすくめて、アスマは衝立の陰に消えた。
「じゃ、下で待ってます」
片手を上げて、カカシが出ていく。イルカはペンを持ち直し、少しでも早くノルマを終わらせるべく、机に向かった。
六の章へ続く