『狂える椿』


byつう

二十
七の章

 声が聞こえた。
 まっすぐな、素のままの声が。
『イルカ』
 耳の奥に届いた響きは、やがて全身にしみ渡っていく。
 本当に? 本当にあなたの声なのだろうか。
 一瞬、不安になる。けれど。
 身を包む腕の強さとあたたかさが、紛れもなくそれが現実であると告げている。
『イルカ』
 何度も何度も、名を呼ばれる。
 あなただ。やっとまた、あなたに会えた。
 安堵と、このうえない充足感。イルカはゆっくりと、カカシの背に手を回した。





 そのあとの記憶が、イルカにはない。
 目覚めたとき、となりにはカカシがいた。明け方の、ほんのりと淡い光が幕の隙間から漏れている。銀髪がそのわずかな光を受けて、さやかに輝いていた。
 きれいだ。
 イルカは思った。この男は、なんてきれいなんだろう。
 造作だけではない。こうして眠っているときでさえ、内からあふれ出る「気」の美しさは違えようもない。
 全身を血で染めながら、それでもこの男はおのれの信じる道を歩んできたのだろう。師の姿を心の中にいだきながら。
『耐えたり、しませんでしたよ』
 カカシは言った。
『俺、泣きましたもん』
 苦しみからも悲しみからも目をそむけずに、この男はここまで来た。
 うれしかった。カカシがここにいることが。そして自分がいま、カカシの側にいることが。
「よかった」
 形のいい唇から、声が漏れた。はっとして、目を見張る。
 まぶたがゆっくりと開き、ふた色の瞳が現れた。
「気がついたんですね」
 やさしい声。
「はい」
 イルカは答えた。しみじみと、眼前の顔を見つめる。
 不思議な気分だった。あんなにも求め、爪の先までも欲していたというのに、いまはただこうしているだけで満たされている。
「……水郷寺は、どうなりました」
 ふと思い出して、訊く。カカシはくすりと笑った。
「まったく、あんたって人は……一歩間違ったら死ぬところだったんですよ。それを、あんな無茶な真似をして。他人の心配をしている場合ですか」
「すみません」
 素直に謝った。自分なりに考えてのことだったが、結果としてカカシにも森羅の者たちにも迷惑をかけてしまった。
 長い指が黒髪を撫でる。その感触がじんわりと伝わってきて、不覚にも涙がこぼれそうになった。顔をそむけて、目を伏せる。
「イルカ」
 肩に手がかかる。もう、こらえることはできなかった。
 視線を上げる。手をのばす。引き寄せる。
 はなさない。ずっと、側にいる。たとえあなたが消えてしまったとしても。
 なにを畏れていたのだろう。この身の内に、間違いなくあなたはいたのに。信じていれば、いつでもあなたを感じられたのに。
『信じてよ』
 それを疑ったのは、自分。あなたの生き方を、どうしてもっと素直に受け入れられなかったのだろう。こんなにも、愛しているのに。
 求めるだけでは駄目なのだ。むろん、与えるだけでも。互いに互いをさらけだし、互いに互いを見つめ合う。正も負も、すべてを。
 イルカははじめて、自らの意志でカカシを抱きしめた。





 例によって、朝餉は薬草粥だった。
「というわけで、水郷寺はしばらく動かないと思いますよ。『座』の方は、あんたがうまく逃がした間者がエサをまいてくれてるでしょうし。まあ、一両日中には方がつくでしょ」
 カカシの説明に、イルカは頷いた。
「では、これで雨の国のルートは完璧ですね」
「とりあえずはね。来週には、新しい荷が入る。もちろん油断は禁物ですけど……」
「よろしいですか」
 戸口から、声がした。カカシは「はいはい」と答えて立ち上がった。
「ここはおまえんちなんだからさー。いちいち断らなくていいって」
 言いながら、扉を開ける。
「そういうわけにもまいりませんと、申し上げたはずですが」
 真面目な顔でそう言って、煉が入ってきた。
「律儀だねえ」
 あきれたように、カカシ。
 彼らは十年来の知己らしい。かつて写輪眼が暴走して負傷したとき、煉の父がカカシを助けたという。
 気のおけない会話を交わしている二人を見て、よからぬ想像をしたこともあった。が、いまはそんなことはない。本当に、自分でも不思議だ。心の持ちようひとつで、こんなにも穏やかになれるなんて。
「で、なに」
「木の葉から、使者が到着いたしました」
「へ、三代目の?」
「はい。はたけ殿に直接お目にかかりたい、と」
「……わかった」
 わずかに声音が変わった。藍色の瞳に鋭い光が宿る。
「どこにいる」
「広間に。人払いはしてあります」
「悪いね」
「いいえ」
 煉の横を通り、房を出る。と、すぐに引き返してきて、
「イルカ先生」
 扉の陰から顔だけ出して、言う。
「はい?」
「ちゃんと、薬も飲んでくださいよ」
「はあ」
「じゃ、行ってきます」
 にっこりと笑って、手を振る。思わず、頬がゆるんだ。
 くすり。小さな笑い声。卓の横で、煉が苦笑している。
「なんだか、めずらしいものを見てしまいましたね」
「……すみません」
「べつに、謝ってもらうようなことじゃないですけど」
 牀の枕辺にある小箱を手に取る。中から薬包を出して、
「食後に一包です」
 言い置いて、煉も房をあとにした。
 木の葉からの使者は、どんな知らせを持ってきたのだろう。あるいは、どんな指示を。
 文遣いではなく、使者。火影の意志を確実に伝え、その答えを持ち帰るための。
 冷めかけた粥を口に運びつつ、イルカはあらゆる可能性を考えていた。






二十八の章へ続く

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