『狂える椿』


byつう

二十
六の章

 右手が熱くなる。「気」があふれ出る。もうひとりの自分が必死になって、暴発を抑えようとしているのがわかった。それでも。
 止められなかった。傷ついたイルカを見てしまったから。
 承知していたはずだった。ここまで、この人を連れてきたのは自分。命のやりとりをする現場に。
 忍であることを思い出してもらうために、あえてこういう方法をとったのだ。それなのに、なんて自分はわがままなんだろう。いままで散々、イルカを傷つけてきたというのに。体だけではない。心までも、ずたずたにしてきたくせに。
 理屈ではわかっている。間者を逃がし、こちらが操作した情報を持ち帰ってもらうためには、それが最善の方法だった。だから、イルカもその策を選んだのだろう。だが。
「煉……」
 つらそうな顔。唇をぐっと結んでいる。
 煉は逃げなかった。防御の構えもとらない。すぐうしろに理寧がいたが、彼もまたじっとこちらを見据えたまま、微動だにしなかった。
 わずかに放電が起きた。ほとんど無意識のうちに、カカシは額宛てを外していた。
 両の眼を見開く。右手をかざす。息を吸い込んだ、その瞬間。
「駄目……です」
 弱々しい声とともに、がし、と、足首を掴まれた。
 声とは裏腹に、強い力。いや、実際はたいした力ではなかったのかもしれないが、掴んだ手から流れ込んできた「気」は、カカシの動きを封じるに十分なものだった。
「……カカシ先生」
 小袖姿のイルカが、カカシの脚にすがりついた。
「大丈夫……ですから」
 漆黒の瞳が訴える。
「おれは、大丈夫です。だから……」
 やめてください。もう。
 言外の声。カカシは肩の力を抜いた。両手を差し出し、イルカを抱き寄せる。
「イルカ」
「はい」
「イルカ……」
「……はい」
「イル……カ……」
 何度も、何度も名前を呼ぶ。すっかり冷え切った体を抱きしめて。
 ほかに言葉は出なかった。ただ、愛しくて。その名を呼ぶだけで精一杯だった。
 ゆるゆると、イルカの手がカカシの背に回る。カカシは大きく息を吸い込み、イルカを抱き上げた。





 緊張が、途切れたのだろうか。
 牀の上に運んだときには、イルカは意識を失っていた。
 濡れた小袖を脱がし、体を拭く。傷の手当てをして夜着に着替えさせた直後に、煉が薬湯を持って房に入ってきた。
「失礼します。うみの殿は……」
「眠ってる」
「そうですか」
 卓の上に薬湯を置いて、そっと一礼する。
「では、これで」
「……煉」
 カカシは顔を上げた。
「すまなかった」
「え?」
「見境もなく、乱暴なことをしてしまって」
 幹はどうなっただろう。額を直撃する寸前に、なんとか力をゆるめられたと思うのだが。
「それは、われわれも同じです」
 煉は唇を噛んだ。
「あなたから、うみの殿のことを任されておきながら……」
「ん。でも、この人、言い出したらきかないからね」
 くすりと笑って、続ける。
「とくに、任務がらみだと」
 そうだ。報告書だって、一字一句きっちり書かないと受理してくれない。他人に厳しいかわりに、自分にも厳しい。そんな人だから。
「……で、『座』の方は?」
「雲の国に内通している者の目星はついています。今月中に行動を起こすはずなので、現場を押さえるつもりです」
 桃の節句までに、「座」を潰す。東雲卿の目論見がそれであるならば、四、五日うちになんらかの動きがあるはずだ。
「そうか。では、よろしく頼む」
 神妙に、カカシは言った。
 「座」に関しては煉の方が詳しい。イルカが手引きして逃がした間者の行方もしっかり把握しているはずだし、とりあえず、東雲卿の思惑は泡と消えるだろう。
 これで、雨の国を経由する運搬ルートは確保できた。独立反対派はいまのところ目立った動きはない。
 一旦、里に戻るか。
 カカシは考えた。このままイルカをここに留め置けば、また無理をするかもしれない。忍としての責務を果たせるように、ことさら厳しく接してきたが、まさかここまでやるとは思わなかった。
 もう、十分だ。身を呈して、見事に敵を欺いたのだから。
 意向を告げると、煉は快くそれを承知した。
「わかりました。私も、その方がいいと思います」
 翡翠色の目が、牀に横たわるイルカに向けられた。
「うみの殿には、しっかり養生していただきましょう。全快なさったら、またぜひ一緒に働きたいものです」
 社交辞令ではない。煉は心から、そう思っているようだった。
 森羅に、認められたか。カカシは口元をゆるめた。
 たしかにあれは、効果的かつ無駄のない策だった。万が一、失敗しても被害は最小。イルカの命だけなのだから。
 森羅としては、なんのデメリットもない。そこまで計算して、イルカは自ら囮となることを提案したのだろう。
 一瞬、背筋が震えた。先刻、全身にみなぎった殺気が甦る。
 駄目だ。カカシは拳を握り締めた。
 無事、だったんだから。
 イルカは無事だった。いくつか怪我はしているが、命に別状はない。指の一本もなくしたわけじゃない。五体満足で、ここにいるんだから。




 途端に、カカシは思い出した。
 ナルトが演習中の事故で負傷したとき。
『もし、ナルトが指一本でもなくしていたら、ビンタじゃ済まなかったと思いますよ』
 あのとき、イルカが発した凍りつくような殺気。それと同じ「気」を、いま自分は内包している。
 大切なもの。愛しいもの。かけがえのないもの。
 それを侵されることに対する言いようのない怒りが、頭の中でとぐろを巻いている。
 もし、これが爆発していたら。考えるだに恐ろしい。



 よかった。本当に、よかった。
 昏々と眠るイルカの額に口付けて、カカシは自分の幸運に、あらためて感謝した。





二十七の章へ続く

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