『狂える椿』
byつう
二十二の章
夜半。
カカシは単身、雨の国に潜入した。ここから山をふたつばかり越えれば、水郷寺である。
「まったく、『風見鶏』が余計なことをしてくれて」
木の上で休憩を取りながら、独白する。
本当は、イルカが目を覚ますまで枕辺にいたかった。が、事は急を要する。
「さあて。行くかな」
立ち上がって枝を蹴る。銀髪が、夜陰の中を駆け抜けていった。
雲の国の忍によってイルカに施された呪術は、半日以上に及ぶ祈祷の末、ようやく解けた。
「おはようございます」
扉の向こうから、声がした。煉だ。
カカシはそっと牀から降りた。イルカはまだ意識を失ったままだ。昨夜よりは、幾分か顔色がよくなったようだが。
「はたけ殿、よろしいですか」
ふたたび、声。
「はいはい、いま開けるよ」
言いながら、カカシは扉を押した。
「鍵なんかかけてないんだから、勝手に入ってくればいいのに」
「そういうわけにもいきません」
煉は茶器を乗せた盆を手に、房の中に進んだ。
「せっかく水入らずで過ごしておられるのに」
「あのねえ、この人は怪我してるんだよ。それでなくたって、任務中にそーゆーことしないって」
暗部には、わざわざ怪我人や病人を選んで伽をさせる悪癖のあるやつもいたが。
「わかってますよ。冗談です」
くすりと、子供のような顔をして笑う。
煉はこのところ、少しずつだが以前のような表情をするようになった。好奇心旺盛ないたずらっ子。十年前に見た印象そのままに。
なにかが彼の中で変わってきているのかもしれない。一枚ずつ薄皮が剥がれるように、あるいは徐々に氷が解けるように。
「薬湯を持ってきました。朝餉の前に、一杯いかがです」
「いただくよー。ずっとこの人に気を送ってたんで、もうクタクタ」
「だと思いました」
煉は小振りの湯呑みに薬湯を注いだ。
「どうぞ。疲労回復には、これがいちばん効きます」
「で、朝飯は例の薬草粥?」
「もちろんです。今日は理寧も同じメニューですね」
さもあろう。一日中、休みなく祈祷を行ない、最後には魂寄せまでしようとしたのだ。気力体力とも、限界まで使い果たしたはず。
「本当に、いろいろと世話になった。この借りを返すのは大変だなー」
「大丈夫ですよ。きっちり返してもらいますから」
翡翠の瞳が、楽しそうに向けられる。カカシは薬湯を飲み干して、
「なーんか、恐いねえ。俺になにをしろって?」
「水郷寺に行ってください」
ずばりと、煉は言った。
「へえ……水郷寺ねえ」
湯呑みを卓に戻して、続ける。
「そりゃまた、なんで」
「うみの殿が東雲卿に拝謁しているあいだに、城の中を調べたんですが」
「それで?」
「東雲卿のお側衆と一緒に、水郷寺の僧侶がいました」
「あーらら。坊さんたち、今度は雲になびいたわけ」
「みたいですね。たぶん、『座』の力を弱めるためだと思いますが」
「なるほどねー。利害が一致したってことか」
国主をしのぐ権力を持つ水郷寺である。商人たちが結束してまつりごとに口出しするのは、以前から苦々しく思っていたのであろう。
「どうするかなー。できれば、あそこの坊さんたちとは関わり合いたくないんだけど」
「あとを引きそうですからね。完璧に潰してもいいなら、楽なんですが」
煉にしてはめずらしく、感情的な物言いをした。森羅も、「風見鶏」と称される水郷寺に煮え湯を飲まされたことがあるらしい。
「そりゃまずいでしょ。正面切ってやり合ってるわけじゃないんだから」
うっかりしたことをすれば、外交問題になる。忍はあくまで、裏方に徹しなければならない。
「とりあえず、門主の近くを掃除してください」
側近を暗殺して、脅しをかける。門主本人を殺しては目立ちすぎるので、妥当な線だろう。カカシは頷いた。
「今夜中に雨の国に入る。この人のことは……」
そっと牀に目を遣る。幕の陰に、白い横顔が見えた。
「お任せください。私どもが、責任をもって看護いたします」
「頼むよ」
一度はあきらめた。最愛の人の最期を、この目で見届けようと覚悟した。それが自分にできるただひとつのことだと。
しかし、イルカは生きている。死の縁から、かろうじて引き返してきた。あたたかい体を抱きしめて、カカシはその事実を噛み締めた。
「なんとなく、妬けますね」
ひっそりと、煉が言った。
「あなたにそんな顔をさせるなんて」
「『女だったら操を捧げたくなる顔』だったっけ」
「ええ。……いいえ、一点だけ訂正します」
「訂正?」
「男でも、操を捧げたくなるような顔ですよ」
小さく笑って、煉は牀の側に寄った。眠り続けているイルカを見下ろして、言を継ぐ。
「ひとつ、訊きたいと思っていたんですが」
「なにを」
「それほど大切に思っているのに、どうしていつも、あんなに厳しい態度を取るんですか」
「どうしてって言われてもねー」
とてもじゃないが、ひとことでは説明できない。
「まあ、いろいろあって……」
「機密事項ですか」
ならば、訊かない。煉の目がそう告げている。カカシはため息をついた。
「機密ってことはないんだけど……まあ、強いて言えば、親離れしてもらうため、かな」
「親離れ、ですか」
「そ。この人は、孵化したばかりのヒナみたいなもんだから」
そして、最初に見たものを親だと認識した。自分を守ってくれる、唯一のものだと。刷り込み現象。それによって、イルカはカカシにすがってしまったのだ。
カカシは煉に、この一年あまりの出来事をかいつまんで話した。
「そう……だったんですか」
話を聞き終えて、煉はあらためてイルカを見遣った。
「あなたが、この人の時限印を……」
ぐっと、唇を結ぶ。しばらく、煉は無言だった。多くの思いが去来しているのだろう。カカシは待った。
「よかったですよ」
ぼそりと、煉が言った。
「よかった?」
意味を計りかね、カカシは訊いた。以前にも同じような会話をした記憶があるが、そのときとは微妙にニュアンスが違う。
「ええ。もし、はじめにそのことを聞いていたら、私はこの人に敵意をいだいたかもしれません」
「へえ、どうして」
「ここに来たころのこの人は、不安定な状態だった。あなたがうまくフォローしていたから、目立ちませんでしたけどね。与えられた仕事はそつなくこなしていましたが、それだけでした。だから、私はあなたに訊いたんです。この人は何者なのか、と」
そうだった。東雲の荘に赴く前、煉はイルカの器量を危ぶんでいた。果たして使い物になるのかどうか。
「あのころだったら、私はたぶん、この人を潰していた。万にひとつの確率で助かったくせに、あなたの足手まといになるような者は許せない。いくらあなたが、この人を大事に思っているとしても」
「……てことは、この人の命って首の皮一枚で繋がってたわけ?」
「そうですね。もし東雲の城で捕縛されて、ただ助けを待つだけだったら、迷うことなく処分していたでしょう」
だが、イルカは戦った。おのが命を賭けて。結果的に術を封じられてしまったが、それは致し方ないことだ。
「本当に、よかったです」
晴れやかな顔で、煉が言った。
「この人を殺さずにすんで」
本音だろう。カカシは思った。煉のことは信用していたが、これでさらに安心してイルカを委ねられる。
朝餉のあと、すぐに龍尾の砦を出た。そして、いまは真夜中。
夜明けまでに水郷寺に入り、煉の言うところの「掃除」をせねばならない。カカシは、全力で木々のあいだを飛んだ。
二十三の章へ続く