『狂える椿』


byつう

二十
の章

 祈祷の声が、砦中に流れている。
 理寧が護摩壇に向かって連珠をかざすたびに、手足を拘束されたままのイルカの体が激しく痙攣する。そんな状態が、半日ちかく続いていた。
 なにもできない自分が不甲斐なかった。雲の忍が、断末魔に残した禁術。命を引き換えにした邪念は、イルカの内部を喰らった。
「しぶといですね」
 疲れきった表情で、煉が言った。彼はついいましがたまで、理寧とともにイルカに施された術を解くために祈祷を行なっていたのだ。
「理寧は、解術に関しては相当の力を持っているので、もしやと思ったのですが……」
 東雲の城での概要は、すでに聞いた。返書を受け取る段になって、イルカの身元がばれたのだ。見破ったのは、かつて国境の砦を任されていた司令官だという。
 サイアクだよな。
 カカシは唇を噛んだ。なんだって、よりにもよって、そーゆーやつが出てくるかね。
 たしかに、自分はイルカに六年前の出来事と対峙してもらおうと思った。それによって、「いま」を確信できると思ったから。
 厭わしい記憶を、自分の力で滅してほしかった。もう終わったことなのだと。いまの自分は、そんなものに負けはしないのだと。
 それなのに。
 結局、読みが甘かったのだろう。その可能性はゼロではなかったのに、対策を立てることを怠ってしまったのだから。
 煉によると、イルカはその司令官の張った結界の中で自身のチャクラを全開させたという。
「死なばもろとも、という感じでしたね」
 それでも、かろうじてイルカが一命をとりとめたのは、司令官が自らの体を放棄したかららしい。肉体を捨てて、念を残す。それによって、イルカは死者に器を乗っ取られてしまったのだ。
 いま、イルカの中ではふたつの思念が攻防を繰り広げている。どちらが勝つかは、まったくわからない。
「もし……」
 煉は言った。
「うみの殿の念が途切れたら、そのときはわれわれで処分させていただきますが、よろしいですか」
 イルカがいなくなってしまったら。イルカが、イルカではなくなってしまったら。
 同じだ。あのときと。時限印の発動を畏れ、いつか自分がイルカを殺さなければならないと思っていたころと。
 あきらめたくはない。なにか方法はあるはずだ。あの人を取り戻す方法が、どこかに……。
「……はたけ殿」
 煉はカカシの手を取った。
「心中、お察し申し上げます」
 握る手に、力がこもる。
「あなたにとって、ただひとりの人であることは重々承知しておりますが、私にはこの砦を守る責任があります」
 そうだ。この男は、仲間のために自分の父親を殺した。殺さざるをえなかった。そんな修羅場を乗り越えて、ここまで歩いてきた男なのだ。
「本当は、あなたにその見極めをしていただければいいのでしょうが、彼はあなたの副官です。あなたに決断を委ねたとなれば、不審を抱く者も出るやもしれませぬゆえ」
「わかってるよ」
 もう片方の手を、そっと添える。
「ご厚意、感謝する」
「では……」
「判断は、おまえに任せる。ただ……」
「は」
「見届けたい」
 万一のときには、イルカの最期を。
 もう、自分にできることはそれだけだから。どんなことになっても、一緒にいよう。たとえイルカが霧散してしまっても、自分はその空間にいたい。
「……わかりました」
 翡翠色の目が、まっすぐにカカシに向けられた。
「では、こちらへ」
 固い口調でそう言って、煉はふたたび祈祷所に続く渡殿へ向かった。





 イルカの顔に、色はなかった。
 死面のようだ。カカシは思った。本当に、まだ生きているのだろうか。
 理寧の祈祷の声も、掠れぎみになってきている。それはそうだろう。もう夕刻である。朝から水も摂らずにここに籠もっているのだから。
 むせかえる香の匂い。幻覚を起こす作用のものが混じっているのかもしれない。イルカに巣くう邪念を呼び出すために。むろん、それはイルカ自身にも作用する。どちらが先に音を上げるか。一か八かの賭けであろう。
「こちらも、あまり余力がありません。次で結論を出します」
 煉が告げた。カカシは頷いた。
「煉」
「はい」
「すまん」
「なにがです」
「捨ててくることもできただろうに」
 禁術に侵された者を砦に入れるのは、自殺行為だ。砦の中で術が発動したら取り返しがつかない。かつて、玄が時限印によって仲間を虐殺していったように。
 その恐ろしさを十分に知っているはずなのに、煉はイルカを助けた。結局は処分するしかないにしても、ここまで連れて帰ってきてくれた。
 カカシの目の届く場所に。
「私の一存で、そんなことができるわけはないでしょう」
 煉は微笑んだ。
「彼は森羅ではない。木の葉の忍で……あなたの大切な人なのですから」
 煉の気持ちが、痛いほどに心にしみた。拳を握り締め、護摩壇の近くへ進む。
 理寧がちらりとこちらを見た。煉に目配せをして、ふたたび連珠を壇に向けて構える。
 いままでとは違う、弦を震わすような音が幾重にも連なった。複雑な口呪。これは、霧の国で一度だけ見た魂寄せの禁術。
 まさか、そこまでするのか。いけない。そんなことをしては、術者が身代わりになってしまう。
「煉、駄目だ。理寧が……」
 あいだに割って入ろうとしたとき。
 イルカの体が大きく跳ねて、宙に浮いた。表情が苦しげに歪み、大量の血が口からあふれた。護摩壇が赤く染まる。その血痕のひとつひとつが、生き物のようにうごめいて、理寧に迫った。
「伏せろ!」
 煉が叫んだ。理寧はその場に突っ伏した。
『裂!』
 横一文字の強烈な攻撃結界。実際は動きながら細かく印を組んでいるのだろうが、あまりにも速くて、カカシでさえもそれらのすべて見ることはできなかった。
 護摩壇が崩れる。火柱がいくつも立って、炎が天井を這う。その中で、イルカの体は糸が切れたかのようにどさりと落ちた。
 いけない。火が回る。
 咄嗟に、カカシは水遁の術を使い、壁に沿って水を巡らせた。炎と水がせめぎあう。
 渦を巻いていた火がようやく収まったときには、祈祷所の壁も天井も真っ黒になっていた。
「……イルカ?」
 そろそろと、近づく。ところどころ、焼けた小袖。何か所か火傷もしている。どうなったのだろう。まさか……。
 首に手をやる。わずかながら、まだ脈はあった。内部に巣くっていた「気」は、跡形もなく消滅している。
 助かった。
 唇が震えた。
 イルカを、失わずにすんだ。
 すすだらけの手で、カカシはイルカを思い切り抱きしめた。





二十一の章へ続く

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