『狂える椿』


byつう

十三
の章

 明るい光が障子ごしに差し込んでいる。
 イルカは脇息にもたれて、それをぼんやりとながめていた。アスマはいない。昼餉を食べてすぐに、着替えを取りに行くと言って出かけたのだ。
「カカシのやつが戻るまで、ここにいろ」
 かつての上官はそう言った。
「いまの状態じゃ、おまえさんをひとりにしとくわけにはいかねえからな」
 そうかもしれない。カカシがいないことに耐えきれず、だれかの腕を求めてしまうかもしれない。先夜、アスマにすがったように。
 まともな思考ができなかった。ただ、ぬくもりがほしかった。だから、目の前にあった大きな胸に身を預けてしまった。
 実のところ、あのままアスマと関係を結んでいてもおかしくなかった。自分から誘ったのだ。拒むことなどできるはずもない。
 家全体に頑強な封印結界が張られていることに気づいたとき、イルカは覚悟した。逃げることはできない。自分が蒔いた種だ。自分で始末しなくては、と。
 だが。
 アスマはイルカを抱かなかった。無理強いをする趣味はないからと言っていたが、それが本当の理由ではないことぐらい、イルカにもわかる。
 ありがたかった。そして同時に、申し訳なかった。
 不甲斐ない自分のために、こんなにも心を砕いてくれる。自分にはそんな価値などないのに。
 きのうは一日、床の中でうとうとしていた。張りつめていた気がいっぺんにゆるんだらしい。アスマが任務を終えて帰ってきたのにも気づかなかった。
 そして、今日。
 イルカはもう一日、休みを取った。アスマに勧められたせいもあるが、自分でもゆっくりと、これまでのことを考えてみたかったから。
 九尾の一件以来、凍りついていた心を解かしてくれたのはカカシ。時限印を滅し、この身を救ってくれたのもカカシ。その手を取って、安らかな眠りの中にいた。それがいつからか、不安に変わった。
 いずれカカシがいなくなってしまうという、不安。
 自分は一度、闇を経験した。カカシによって、ようやく闇を抜けたというのに、ふたたびその闇に落ちてしまったら。
 果たして、自分は立ち直れるだろうか。カカシを失っても、なお。
 光が目にしみる。目の奥がじんじんと痛んだ。
 顔を洗ってこよう。冷たい水で。少しはすっきりするかもしれない。そう思って立ち上がったとき。
 玄関の方から音がした。アスマだ。廊下に出て、様子を窺う。
「え……」
 話し声。足音。覚えのある「気」。
 イルカは目を見開いた。廊下の向こうに、銀髪が現れた。
「ただいま帰還しました」
 きれいな発音で、カカシは言った。まっすぐに、こちらに向かってくる。
 うれしいはずなのに、声が出なかった。足も、手も動かない。
「遅くなりまして」
 目の前まで来て、口布を下ろす。形のいい唇が、笑みの形を作った。
「ご無事で……なによりです」
 やっと、声が出た。おずおずと手をのばす。と、その手に、風呂敷包みがぽん、と乗せられた。
「着替えてください」
 事務的な声音。イルカは風呂敷包みとカカシを見比べた。
「テストをしますから」
「テスト?」
「そう。あんたが俺に、ついてこられるかどうか」
 話が見えない。ちらりと横を見遣る。アスマはため息まじりに紫煙を吐き出し、
「それじゃ、なんのことだかわかんねえぞ、カカシ」
「あ、そうか。じゃ、これを」
 カカシは懐から一枚の紙を取り出した。
「三代目直筆の命令書です」
 直筆? つまり、勅命ということか。
「おれに、ですか」
「そうです」
「拝見します」
 風呂敷包みを脇に抱えて、書面を確認する。
「……これは」
 手が小刻みに震える。イルカは顔を上げた。
「書いてある通りですよ。あんたは今日付けで俺の副官に任じられています。だから、実戦でどれぐらい使えるか、試させてもらいます」
 信じられなかった。悪い冗談ではないのか。前線を離れて、すでに六年ちかくたっている。ずっと里の中にいて、アカデミーや事務局の仕事ばかりしていたのに。
 むろん、鍛練を怠っていたわけではない。子供たちを教える立場にいるからには、日々修錬を積んでいるが、それと実戦とは違う。急にこんな辞令を受けて、慌てない方がおかしい。
「急いでください。日が暮れてしまうでしょ」
「いきなり、そんなことを言われても……」
「これは上官命令です。それとも、俺が着替えさせてあげましょうか?」
 突き放したような話し方。これには覚えがある。出会ってまもないころ。カカシがイルカに体の関係を強要していたころと同じ。
 時限印を探すために、カカシはあえて泥をかぶった。イルカを貶めて、辱しめて、慰みものにして。自らそんな敵役を演じていた。あのときのカカシは、ことさらイルカを侮るような物言いをしていた。
「結構です」
 イルカは踵を返した。座敷に戻って、手早く着替える。
 カカシがどういうつもりかはわからない。だが、すでに火影も承知しているのだ。自分が、里外の任務に出ることを。
 それも、「写輪眼のカカシ」の副官。なまじな者では勤まらない。自分にそんな大任が果たせるだろうか。
 先刻とは違った不安をいだきつつ、イルカは座敷を出た。
「じゃ、行くよ」
 そっけなく言って、カカシはすたすたと玄関に向かった。イルカはきっちりと、アスマに一礼した。
「お世話になりました」
「いんや。たいしたことはしてねえよ」
 煙草をもみ消して、続ける。
「気をつけて行きな」
「はい」
 再度、深々と頭を下げる。
「遅いよ、イルカ」
 玄関から、声。一瞬、ぎくりとする。
 イルカ。
 それは、閨でのみ聞いていた呼称だったから。
「いま、参ります」
 固い口調で答え、玄関へと向かう。
 イルカ。
 たしかに、カカシはそう言った。けれどそれは、愛を交わすときの囁きとはまったく違う。カカシはイルカを、部下としてそう呼んだのだ。
 今日から、自分はこの男の部下。
 もう、背を見送る必要もない。この男の身を案じて、眠れぬ夜を過ごすこともない。いつでも、側にいられるのだ。しかし。
 カカシが遠い。すぐ前を行くカカシの背が、とてつもなく遠かった。
 振り向くこともしない。ただ、黙々と歩いていく。どこまで行くのだろう。試すと言っていたが。
 里のはずれまで来た。ここはカカシの家。広い庭に入ったところで、カカシは立ち止まった。
「より実戦に近い形で、やるよ」
 振り向いて、宣言する。
「三十分、俺の攻撃をかわせたら合格ね」
 ここで、実戦演習をするのか。たしかに広いが、うっかりしたら庭木や家を壊してしまう。
「死ぬよ」
 ぼそりと、カカシは言った。
「余計なこと考えてたら」
 クナイを手に、カカシは地面を蹴った。







十四の章へ続く

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