『狂える椿』
byつう
十二の章
「寝たよ」
アスマは言った。
「あいつと、寝た」
音が言葉となって耳に届き、脳に伝わるまでしばらくの時が必要だった。
寝たのか。こいつが。イルカと。
カカシは口の端を歪めた。そうか。あの人は、そこまで壊れてしまったのか。
あのとき、里に戻ればよかったのだろうか。煉が雨の国の商人たちに根回ししているあいだに。そうすれば、少なくともあの人は俺の腕の中にいたかもしれない。けれど。
それはできなかった。忍としての責務を放棄してしまったら、この先、自分は生きていけないと思ったから。
いかなるときも最善を尽くす。それが無理なら、次善の策を練る。いまはもういない、たったひとりの師が教えてくれたこと。
「……そう」
カカシは呟いた。
「そう、って……きさま、ほかになにか言うことはねえのかよ!」
吐き捨てるように言って、アスマはカカシをにらんだ。
「あるよ」
さらりと、カカシ。
「おまえさあ、いますぐ忍を辞めろよ」
「なに?」
「あの人と、ずーっと一緒にいる気なら」
藍色の隻眼が、冷たい光を宿した。
「あの人の一生を引き受けるなら」
つねに命のやりとりをしている忍では、イルカを安心させることはできない。むろん、どんな仕事についていても、なにかしらの危険はつきものだが。
「おまえに、それができる?」
ぐっ、と、アスマは口をつぐんだ。
だよねえ。そんなこと、できっこない。
ものごころついたころには忍として生きる道しか残されていなかったカカシとは違い、アスマはおのれの信念と努力によっていまの地位を築いたのだ。その重みも価値も、十分にわかっているはずだ。
カカシでさえも、九尾の一件で四代目を失ってから、人はそれぞれに為すべき役割があり、そのために生かされているのだと気づいたのだから。
生きる覚悟あっての、死ぬ覚悟。泥水をすすっても、血まみれになっても生き抜く覚悟のないやつに、死を論じる資格などない。
「なあ、アスマ。俺、間違ってたよ」
しみじみと、カカシは言った。
「時限印を消して、あの人の手を取って、抱きしめて。それで、すべてがうまくいくと思った。でも……」
そうではなかった。自分はイルカに、新たな枷を与えただけ。
「俺は、あの人を救えない」
「いまさら弱音を吐くんじゃねえ」
「弱音じゃない。事実だ」
自分だけではない。だれもイルカを救うことはできない。イルカが、自らの足で立ち上がるしかないのだ。
「だから、あの人を、連れていく」
一語一語、はっきりと区切って言う。
「連れていく?」
「そう。今度の任務に。もう三代目の許可は取った」
アスマは眉をひそめた。懐から煙草を取り出し、かじるようにしてくわえる。
しばらく、どちらもしゃべらなかった。川面を渡ってきた風が、枯れたすすきを揺らしていく。かさかさと、乾いた音をたてて。
「うまくねえな」
ぼそりと、アスマが言った。
「ん?」
「次の仕事ってえのは、森の国がらみだろうが」
「まあね」
「うまくねえよ、そりゃ」
「なにが」
「あいつの任務履歴、見ただろ」
「森の国での諜報活動では、著しい成果を上げてる。問題はないと思うけど?」
「だからだよ」
ため息とともに、紫煙を吐く。
「森羅の忍の中には、あいつのことをよく思っていないやつがいるかもしれん。もう何年も前のことだが、あいつは森羅から、勲章もんの情報をいくつも取ってきてるんだ」
七年前の城攻めのことか。カカシは合点した。
今回は、その森羅と連携して動かねばならない。そんなところへ、不協和音の元になるかもしれないイルカをともなって、果たしていい結果が得られるだろうか。アスマはそれを案じているのだ。
「おまえの心配もわかるけどね。情報が取れたということは、森羅の内側に入り込めたということだ。だったら、大丈夫だよ」
一旦、懐に入ったのなら。
アスマはまだ不安をぬぐいきれぬようだった。カカシは、アスマの手から風呂敷包みをひったくった。
「そういうわけだから」
打って変わって、冷ややかな口調。
「返してもらうよ。あの人を」
隻眼で、見据える。アスマは憮然として、踵を返した。
「なるほどねえ」
アスマの家の前まで来て、カカシはあきれたような声を出した。
「あの人を閉じ込めて、好き放題してたわけだ」
家には、かなり強固な封印結界が張ってあった。イルカは、結界術に関する知識を持っている。いくらかは実践的な技も使えたはずだ。だから、こんな手の込んだ結界を張ったのか。
「閉じ込めたのは事実だがな」
アスマは結界を解いた。
「好き放題は、してねえよ」
「なに言ってんの。……寝たんだろ」
いまさら、ごまかそうというのか?
そんなやつだとは思わないが、もし、そうなら……。
「寝たよ」
「だったら……」
「けど、してねえ」
「は?」
「あいつは、おまえのコレだろうが」
にんまりと笑って、親指と小指を立てる。
思い出した。以前、同じような状況でアスマと交わした会話を。
「……おまえねえ」
がっくりと、カカシは肩を落とした。つまり、イルカとひとつ蒲団で眠ったが、性的交渉はなかったということだ。
もう枯れちまったのかよ。
あまりの悔しさに、心の中で罵倒する。むろん、そうではあるまい。こいつは、自分の意志で諸々のことを画策したのだ。
「で……あの人は?」
気を取り直して、訊いてみた。
「いるぜ。こっちだ」
先に立って、奥へと進む。波立つ心を抑えつつ、カカシは玄関の三和土に履物を脱いだ。
十三の章へ続く