『狂える椿』
byつう
十一の章
初雪の降った夜。
イルカはアスマに連れられてここに来た。遠駆けの術で移動しているあいだに意識を失ったらしい。気がついたときには、床の中にいた。
木綿織の夜着。ゆるく結ばれた帯。額宛てと髪を束ねていた紐は、枕元に置いてある。忍服は見当たらなかった。
いつ着替えたのか覚えていない。障子の向こうは、すでに白みはじめているようだ。
寝返りを打った。と、そこに、だれかの背中。
「ん……起きたのか?」
ごそごそとこちらを向いたのは、かつての上官だった。
「まだ早いじゃねえか。もうちっと寝ようや」
アスマの手が肩を抱く。イルカは顔を伏せたまま、アスマの胸にもたれた。
自分はどうなったのだろう。記憶がない。ゆうべの経緯とこの状況からすると、アスマと同衾したことは間違いないように思われた。が、それにしては体の様子がおかしい。
房事のあとのけだるさも下肢のあいだの違和感もない。多少の倦怠感と頭痛はあったが、これはいつものことだ。
「もう眠れねえか」
頭の上で、アスマが言う。イルカはゆっくりと上体を起こした。黒髪が頬にかかる。寝乱れた夜着がずれて、左肩が顕になった。
「ああ、やっぱり、俺のじゃかなりでかいな」
頭をかきつつ、蒲団の上にあぐらをかく。
「まあ、大は小を兼ねるっていうし、我慢しといてくれや」
「はい。あの……」
襟元を直しながら、イルカは自分の疑問を口にすべきかどうか考えた。
「メシ、食えそうか」
顔を近づけて、アスマが訊いた。空腹は感じなかったが、吐き気はない。これなら、なんとか食べられるだろう。
「少しなら」
「よーし。いい米があるんだ。粥、作ってやる」
立ち上がろうとしたアスマの袖を、思わず掴む。
「どうした?」
「隊長、ゆうべは……」
「ああ、そのことな」
アスマは訳知り顔で頷いた。
「いやあ、じつは、久しぶりに遠駆けの術なんざ使ったもんだから、ここに着いたら立ってられないぐらい眠くなっちまって」
要するに、関係は持たなかったということらしい。
「おまえさんも寝てたしな。俺は意識のないやつを抱くシュミはねえんだ」
にんまり笑って、アスマは座敷を出た。
ひとり、夜具の上に残されたような形になって、イルカはあらためて室内を見回した。ごくふつうの和室。床の間には刀が飾ってある。
文机には古文書のような古い本と巻物がいくつか乗っていた。衣桁にはアスマの忍服と着物。その下には、取り込んだままの山のような洗濯物。
なんとなく、気が抜けた。昨夜は、あんなにも切羽詰った状態だったのに。
久しぶりに夢も見ずに眠った。間近に体温があったからだろうか。
カカシではないのに。それでもいいと、思ってしまった。側にいてくれるなら、と。
ぞくり、とした。自分で自分を抱きしめる。
本当に? 本当に、いいのか。それで。
意識のないやつを抱く趣味はないと、アスマは言った。それなら、いまは?
ここはアスマの家。自分はアスマの夜着を着て、床の中にいる。今日は休みだ。目が覚めたのならと、挑まれても文句は言えない。なにしろ、誘ったのは自分なのだ。
立ち上がって、帯をきつく結び直す。忍服を探そうと座敷から廊下へ出たところで、イルカは異様な気配に気づいた。
玄関へ向かう空間が、微妙に歪んで見える。思い当たって、縁側に回ってみた。ここも、だ。
「おい」
背後から、低い声。
「粥、できたぞ」
イルカは振り向いた。アスマが近づいてくる。
「……どういうことです」
「なにが」
「封印結界ですね。これは」
中にいる者を閉じ込める結界。防御結界とは違って、術者以外がそれを解くのは難しい。
「まあ、な」
肩をすくめて、アスマは言った。
「夜中にふらふらと出ていかれたら困ると思ったもんで」
「え?」
「ゆうべの様子じゃ、だれでもいいって感じだったからなあ」
たしかに、そうだ。昨夜、カカシの家の前にいたときは。
アスマがぐいっと腕を引っ張った。強い力。反射的に抗った。
のどに手がかかる。自分ごとき、この男なら片手で縊ることができるだろう。そのまま引きずられるようにして、座敷に戻された。夜具の上に突き飛ばされる。
アスマは夜着を脱いだ。下衣のみの姿でイルカを組み伏す。
「いやなのか」
耳元で、囁く。イルカは顔をそむけた。
「いやなんだな」
確認するように言う。
だったら、どうだというんだ。いやだと言ったところで、いまさらなにもなかったことにはできまい。
つらくて、苦しくて、この男にすがってしまったのは自分。それぐらい、わかっている。
「……馬鹿だねえ」
昨夜と同じように、アスマは言った。
「おまえさん、そんなことじゃ、カカシのやつが命張った甲斐がねえよ」
カカシの名を出され、イルカは顔を上げた。
「言い忘れてたけどよ」
息が触れるほどの距離。薄い色の目が細められた。
「俺は、いやがるやつを無理矢理に犯すシュミもねえからな」
よいしょ、と呟きつつ、立ち上がる。
「台所に、味噌汁と粥ができてる。食う気があるなら、来い」
ついさっき脱いだ夜着をはおって、アスマは座敷を出ていった。
『そんなことじゃ、カカシのやつが命張った甲斐がねえよ』
頭の中で、アスマの言葉が何度も何度も木霊する。
たしかに、いまの自分はあの男に命を賭けてもらうほどの価値はない。いや、いまでなくとも、果たして自分には、それほどの値打ちがあったのだろうか。
愛されていると思っていた。愛していると思っていた。でも。
本当に、それは愛なのか。笑顔もやさしさも心遣いも、褥の中での激しさも。
なにひとつ、自信が持てない。あの男を乞うこの気持ちさえ、愛ではなく、ただの醜い執着に思えて。
ふらつく足に力を入れて、なんとか立ち上がる。
『食う気があるなら、来い』
とりあえず、食べよう。これから、どうなるかはわからないけれど。
イルカはゆっくりと、台所へと向かった。
十二の章へ続く