『狂える椿』


byつう

 落ちていく。
 あなたから離れて、土の上へ。
 夜のしじまに、かそけき音のみ残して。






一の章



 ぽん、と、肩を叩かれた。我に返る。
「どうしたんだよ、うみの。おかしいぞ、今日」
 同僚が、ずいっと顔を近づけて言った。
「寝不足かよ。しっかりクマ、作っちまって」
 慢性的な寝不足と食欲不振。いつものことながら、情けない。
「ん。悪い。ちょっとぼんやりしてて……で、なんだ?」
「森の国の件で、文庫の資料がいるんだよ。今日は局長も出張してるし、エビス上忍も火影さまの随員として出かけてるから……」
 要するに、奥殿の文庫の資料を写してきてほしいらしい。
 火影の館の奥殿は出入りが制限されていて、上忍や警護の中忍以外は敷地内に足を踏み入れることもできない。その奥殿にある文庫には、古文書や過去の機密文書などが保管されている。
 事務局の中忍としては、ただひとりイルカだけが文庫に入ることを許されていた。
「わかった。森の国の資料だな。分野は?」
「森羅(しんら)の系譜だけでいいんだけど」
 森羅。森の国の山岳地帯に勢力を持つ忍の一族だ。
「雲の関連か」
「みたいだな。夏に、軒並み間者を消されちまったから、上も本腰入れるつもりなんだろ。雲が相手だと、力ずくで押してどうなるもんでもないからなー。ますます忙しくなるかもしれないぞ。諜報局はデスクワーク、こっちに回してくるだろうし」
 先月結婚したばかりのこの同僚は、休みが激減したことをぼやきつつ、自分の席に戻った。
 たしかに、ここしばらく事務局は忙しかった。通常の業務のほかに、飛び込みの書類作成や出張がぽんぽん入るのだ。
 局長の政城は、今朝いちばんに雨の国への出張を命じられた。非番の者も実際は自宅待機の状態で、イルカももう十日以上、まともに休みを取っていない。
 奥殿に向かう途中で、修錬場の横を通った。アカデミーの子供たちの声が聞こえる。裏山の方では、模擬戦が行なわれているらしい。
 光。炎。突風。任務のない下忍たちが、次の中忍試験に向けて特訓をしているのだろう。
 七班は、豪商の護衛で花の国へ行っている。復命は明日あたりか。どうやら急な依頼だったらしく、イルカはカカシがその任務を受けたことも知らなかった。
 たいして危険な仕事ではない。ナルトたちを連れてのC級任務。それでも、見送りの言葉を告げられなかったことが心に残る。
 これまで、カカシは里を離れる前には必ずイルカのもとを訪れていた。ほんの二、三日のことでも。
 それなのに。
 このところ、カカシは来ない。
 文庫の中で資料を選びつつ、イルカは考えた。この前、あの男に会ったのはいつだったか。アカデミーや事務局では、しょっちゅう顔を合わせているけれど。
 ふたりきりで会ったのは……。
 先月のおわり。帰る途中で急に雨が降ってきて、ふたりして濡れながら家まで走った。あれ以来、会っていない。ということは、もう半月ちかくになる。
 ぱさり。
 書類が一枚、卓の下に落ちた。
 しまった。また、ぼんやりとしていたらしい。
 ひざまずいて、書類を拾おうとした。そのとき。
 急激に、息苦しくなった。狭い部屋に閉じ込められて、空気を抜かれていくような感覚。手が震える。唇が乾く。立ち上がろうとして、視界が横にぶれるのを感じた。
 これは。
 嘘だ。どうして、こんなことが。
 発作。薬の、禁断症状。あのとき、国境の砦で与えられた……。
 ありえない。そんなことはありえない。時限印はもうないのに。あの男が、間違いなく滅したはずなのに。
 混乱した頭の奥で、鮮明に思い出される恐怖。
『殺すなよ』
『火影の子飼いか』
『これは、なかなかに面白い』
 楽しげな声。のどを鳴らして、男は笑った。
『いい土産になるだろう』
 土産。
 木の葉の里を潰すための。
 イルカは床に倒れ込んだ。ひどく頬を打ったようだったが、痛みは感じなかった。ただ、記憶にあるのと同じ突き刺すような冷気が、全身を覆っていた。



 どこだ。ここは。おれはいま、どこにいる。
 暗い。寒い。だれもいない、虚ろな空間。
 こんなに暗いのに、どうしておれは歩いているんだ。どこに向かって。なにを求めて。



 視界が、徐々に開けてくる。白い天井。薬品の匂い。どうやら、医療棟の一室らしい。
「わかるか」
 声が降ってきた。ゆっくりと眼球を動かす。
「……隊長」
 ざらざらとした声が出た。とても自分のものとは思えない。
「わかるんだな?」
 明らかに、ほっとした顔。
「頼むよ、おまえさん。これ以上、俺の寿命を縮めんでくれ」
 大きく息を吐いて、アスマは言った。
「おまえさんのお仲間が、『うみのが文庫に行ったままり帰ってこない』って言うからさ。何事が起こったのかと思ったよ」
 文庫。
 ああ、そうか。資料を調べていて……。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
 掠れた声で、言う。アスマは頭を振った。
「まあ、大事がなくてよかったけどよ。ただ、しばらくは、ひとりで動くのはやめろよ」
「……はい」
 アスマの言い分も、もっともだ。起き上がって礼を述べようとしたところ、髭面の元上官は、やんわりとイルカの肩を押した。
「まだ寝てな。今夜はここにいるといい。経過観察っつーことで、あしたの欠勤届はもう出したから」
 あいかわらず、手回しのいいことだ。イルカはそれに甘えることにした。
 どうせ、まだカカシは帰ってこない。あの男の「気」のあるところにいるよりは、まだ医療棟の方がましだ。もしかしたら、少しは眠れるかもしれない。
「わかりました」
 小声でそう言って、イルカはふたたび目を閉じた。




二の章へ続く

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