『寒椿』


byつう

九の章

 食事に、なんらかの薬物が混入していることはわかっていた。
 捕虜に与えるにしては手間のかかった料理。いくら雲の国が名だたる穀倉地帯を有していて、国力も近隣諸国の中では群を抜いているとはいえ、この食事は上等すぎる。
 麦飯に煮物、汁物。ときには干し肉までついてくる。最初のうちは箸をつけるのをためらっていたが、体力を温存しておかねばいざというときに動けない。
 食べずにいて衰弱するより、薬の影響はあるにしても必要なエネルギーを摂取した方がいい。イルカはそう判断した。
 そして。




 汗をかいていた。夜着の背中が、ぐっしょりと濡れている。イルカは思わずあたりを見回した。
 おれの、家だ。
 確認して息をつく。途端に寒気が襲ってきた。いけない。このままでは体が冷えてしまう。
 イルカは手早く、汗を吸った着物を脱いだ。箪笥から新しい夜着を出して、着替える。
 敷布がよれて、しわくちゃになっていた。きっと、うなされて掴んだのだろう。あのとき、剥ぎ取られた胞衣を握り締めていたように。
 イルカは頭を振って、立ち上がった。毛布をひきずって、六畳に移動する。
 久しぶりに、あの夢を見た。封じたはずの悪夢を。
「なんだって、いまごろ……」
 卓袱台の前にすわって、毛布をかぶる。
 もう五年もたつのに。なんとかいままで、無事に過ごしてきたのに。
 あの男が、あんなことを言うからだ。旨いものを食べろ、だと?
 食べなければ死ぬ。食べれば狂う。その二者選択を迫られた自分には、生きるために食べ物が必要なことさえ厭わしい。
 狂ったままで、いればよかったのだろうか。そうすれば、だれかがこの身を葬ってくれたかもしれない。
『人を助けて、こんなに空しい気分になったことはねえよ』
 悔しそうに、アスマは言った。
『俺は、おまえさんを捨ててくればよかったのか?』
 捕虜になった部下を救出する。それは上官として当然のことだ。アスマは周到に準備して砦を落とし、イルカを助けた。なんら、責められるいわれはない。
 ただ、雲の国が一枚上手だっただけだ。
 砦から撤退するとき、雲の国の司令官は置き土産を残していった。それが、イルカだ。
 間者として砦に入り込んでいたイルカを捕縛し、薬物を混ぜた食事を摂らせ、尋問の合間にべつの責め苦を与える。そうやって正気を奪ってから、なんらかの処置をして、わざと砦に放置した。
「いい土産になるだろう」
 意識を失う直前に聞いた、司令官の声。
 じつに楽しげな、しかし、ぞっとするほど残酷な響きを宿した声だった。




 夜はまだ明けない。青白い月の光が、格子ごしに細く差し込んでいる。
 イルカはひざを抱いたまま、目を閉じた。
 あのとき、雲の国が自分にどんな細工をしたのかはわからない。自分は、いつ爆発するかもしれない爆弾のようなものだ。
 だから、火影は自分を里に置いている。火影の結界の中なら、なんらかの発動があれば、すぐにわかるから。
 そのときは、殺されても仕方がない。
 そのときは、もう……。
 イルカの唇がわずかに動いて、なにごとかを呟いた。だが、夜のしじまの中でさえ、その声が音になることはなかった。



 翌日。
 事務局ではイルカの局長代行就任が正式に伝えられた。前局長の横領事件はすでに公になっており、職員たちはいくらか動揺していた。
「事務処理に関しては、いままで通りの受け持ちでお願いします。ただ、勤務シフトは一部前倒しする場合もありますので、ご了承ください。週ごとに日程表をお渡しします。もし不都合がある場合には前日の正午までに申し出てください。なにか、質問はありますか」
 挙手する者はいなかった。
「では、よろしく」
 イルカは一礼して、自分の机の戻った。
「あれえ、奥にすわらなくていいのかよ」
 隣席の同僚が、意外そうに言った。
「今日から局長なんだろ、おまえ」
「代行だよ」
「でもさあ、一応、おれたちの上司なわけだし」
「その上司にタメ口か?」
「こりゃ同期の誼みってもんで」
「おまえがその調子じゃ、上司になった気がしないな」
「なるほど」
 同僚はくすくすと笑った。
 いずれにしても、あの局長の椅子になど、頼まれてもすわるものか。どうしてもと言うなら椅子を取り替えてからにしよう。
 しかし、まあ、そんな必要はあるまい。自分が代行を勤めるのはひと月ほどのことだし、いままで通りにしていた方が職員も落ち着いて業務を遂行できるはずだ。決裁に必要な印だけ持っていれば、べつにどこにすわっていても差し障りはない。
 実際、その日の仕事は前日までとなんら変わったところもなく、速やかに進行していった。
 カカシはさすがに事故の責任を問われ、火影から二日間の謹慎を言い渡されたらしい。イルカにすれば、それでもまだ甘いと思うのだが、火影の決定には否やもない。
 とりあえず、二日とはいえ、あの男の顔を見なくてすむのはありがたかった。会うたびに、なにかしら心の中をかき回されるのには辟易していたから。
 夕刻。
 イルカが夜勤への引き継ぎをしているところへ、髭面の上忍がひょいと顔を出した。
「先生、そろそろ上がりかい」
 アスマは、余人のいるところではイルカのことを「先生」と呼んでいる。
「はい。なにか?」
「んじゃ、飲みに行かねえか。下で待ってる」
 返事も聞かずに、アスマはさっさと扉を閉めてしまった。いつもながら、あっさりしたものだ。
 昔からそうだった。たとえイルカが断ったとしても、「そうかい。じゃ、またな」で終わりだ。理由を訊いたり、無理強いしたりはしない。
 イルカは帰り支度をして、事務局を出た。階段をゆっくりと下りる。ホールの壁にもたれて、アスマはいた。
「お待たせしました」
「おう。早かったな」
「ちょっと、医療棟に寄っていきたいのですが」
 ナルトの様子が気になる。本当は昼間に行きたかったが、今日は事務局を空けられなかったのだ。
「ああ、九尾のガキなら、もう家に戻ったぜ」
「え……でも、骨にヒビが入っていると聞きましたが」
「そうなんだけどよ。どうしても帰るって言い張って、昼過ぎに下忍どもが家まで送っていったらしい」
 さんざん文句を言いながら、ナルトの両脇を支えているサスケとサクラの顔が目に浮かんだ。
「そうですか。それなら、申し訳ありませんが……」
「見舞いに行くかい」
「ええ。すみません」
「謝るこたあねえさ。じゃ、とりあえず『鳥吉』に行くぞ」
「は?」
 いま、断ったはずだが。
「怪我したガキひとりじゃ、まともなもん食ってねえだろ。『鳥吉』特製の焼鳥でも持っていってやれ」
 にんまりと笑って、続ける。
「それに、おまえさんもあいつが前にいりゃ食えるだろ」
 たしかに、そうだ。
 イルカは苦笑した。自分がまがりなりにも「普通」のものを食べるのは、子供たちと一緒にいるときだけ。アスマはそのことを、よく知っている。
「ここんとこ、また痩せたみたいだからな」
 アスマはイルカの顔を見遣って、言った。
 それはそうだろう。あの男に関わって以来、携帯食料を摂取するのも億劫になって、水と栄養剤しか口にしない日もあるのだから。
「ま、無理に食えとは言わねえが」
 ふい、と視線をそらしてうそぶく。いつもながら、引き際が見事だ。
 こういう付き合いなら、楽なのに。
 先を行くアスマの姿をながめながら、イルカはそんなことを考えていた。








十の章へ続く

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