『寒椿』
byつう
十の章
その男の名を、シギといった。
カカシが彼にはじめて会ったのは、かれこれ十年前。暗部に入って二年目のことだった。
砂忍との戦いで左眼を負傷して、カカシは暗部研究所に収容された。暗部の仕事は、たいてい極秘である。その任務中の怪我については、里の医療棟ではなく研究所に送られるのが通例であった。
シギは医師の資格を持つ研究員だった。年は、本人の言を信じれば三十になったばかりということだが、白髪まじりのぼさぼさ頭に、よれよれの白衣という姿では、どう見てもやさぐれた中年、という感じだった。
「事後承諾になって、悪いんですけどね」
ベッドの横に立って、シギは言った。
「あなたの左眼は摘出しました。毒が脳に回ると命にかかわりますので、われわれの独断で処置させてもらいました」
淡々と告げられる事実。半分になった視界の中で、その男はさらにもうひとつの事実をカカシに伝えた。
写輪眼の移植。
緊急事態であったため、研究所にあったサンプルを使用したという。幸い拒絶反応もなく、無事に神経も繋がったらしい。
「ほんのわずかですが、あなたには血継限界の遺伝子があったようです。もっとも、今後、写輪眼を使いこなせるかどうかは、あなた次第ですがね」
痛いところをついてくる。が、それもまた、事実。
事実しか言わぬ男。偽りもごまかしもしない男。
カカシは、シギを信じた。
「お久しぶりー。主任になったんだって?」
部屋に入るなり、カカシは言った。
シギは、うずたかく積まれた書物やデータの向こうから顔を上げた。ずれた眼鏡を直しつつ、立ち上がる。
「はたけ殿……」
「下っ端も嫌だけど、中間管理職ってのも神経すり減らすんだろうねー。なんだか白髪も増えたみたいで」
「冗談かと思いましたよ」
左手で頭をかきながら、近づく。
「まさか本人とはね」
「あんた、人の話、聞いてる?」
カカシは苦笑した。
「ま、いいか。俺もずいぶん不義理してるし」
「そうですよ」
シギは力強く、頷いた。
「年に一度は検査に来てくれと言ったのに、あなたはあれっきり梨のつぶてだし……。おかげで、片目だけの移植の場合のデータが揃ってないんですよ」
「毎年、献血してるでしょうが」
「足りません」
きっぱりと、シギ。
「血液だけなら、あの倍はないと」
「そんなことしたら、俺、死ぬかも」
「採血のあとで、造血剤を処方してもらってください」
平気な顔で、恐ろしいことを言う。が、十年前と変わらぬその態度に、カカシは今日、ここを訪れた理由を告げた。
五年前、なにがあったのか知りたい、と。
イルカが全治三カ月の重傷を負ったとされる東部国境での攻防のあと、医療棟は多数の傷病者でほぼ満員の状態だった。当然、医師や看護士は通常のシフトとは違う超過勤務が続いた。カルテも乱筆が多く、判読が困難なものまであって、問題になったという。
それが。
たったひとつだけ、きれいに整ったカルテがあった。患者名は、うみのイルカ。全身打撲、骨折、裂傷、その他、いろいろな症例が書き込まれていたが、文字にはほとんど乱れもなく、まるでだれかが清書したかのようだった。
これは、偽物だ。カカシは思った。イルカは医療棟にはいなかった。が、三カ月のあいだ、休職していたことは事実。とすれば、考えられることはひとつだ。
医療棟ではない場所で、療養していたことになる。すなわち、暗部の管轄下にあるこの研究所だ。
通常なら半日はかかる距離を、カカシは一刻あまりでやってきた。昨日の事故の責任を問われて、火影から謹慎を命じられた身である。勝手に里を離れたことがばれないように、なんとか今日中に戻りたい。
カカシの質問に対して、シギは答えなかった。
それは当然だろう。医師にしても研究員にしても、守秘義務がある。
「どうしても、駄目かなー」
「なぜ、そんなことを調べているのです。任務ですか」
「いや、単に、個人的な興味で」
「興味?」
「惚れたのよ、あの人に」
カカシは手の内を明かした。吉と出るか凶と出るか、賭けではあったのだが。
「だからね、あの人がどうしてあんなふうになったのか知りたいわけ」
「知って、どうします」
シギは声を落とした。
「もし、どうにもできないとしたら」
「俺はね、あの人に生きてほしいんだよ」
カカシはシギの目を見据えた。十年前は見上げていた顔が、いまはわずかだが自分よりも低い位置にある。
「どうにもならないことなんか、ないよ。俺はいままで、ずっとそうやって生きてきたんだから」
「……そうでしたね。あなたには、彼がついている」
シギは懐かしそうに言った。
そうだとも。彼は俺を見つけてくれた。だから、あきらめない。彼がつねに、未来へ続く道を探し続けていたように、俺も探す。あの人に繋がる道を。
『後悔、先に立たずって言うけどねえ。なんだって、やってみなくちゃ後悔だってできないのよー。後悔したあとは反省して、もう一回チャレンジね』
本当に、いつも前向きな人だった。
いま、自分はあのころの彼と同じ年になっている。彼にはまだまだ及ばないが、少なくとも恥ずかしいことだけはしたくない。
「わかりました」
シギはようやく頷いた。
「お話しましょう。ただし、このことは火影さまと暗部の上層部の方々しか知りません」
「他言無用ってことだろ」
言わずもがなだ。
研究所の存在自体、公にはされていない。忍の術の分析や、血継限界の遺伝子の解明など、すべて火影の勅命を受けて秘密裡に研究が進められている。カカシ自身も、この研究所にいたことは極秘にされていた。
「うみの中忍のことでしたね」
シギは奥の棚から分厚いファイルを引っ張り出した。さらに古い書物を何冊か持って、机に戻る。
「説明すると、長くなるんですけどね」
山積みになっていた書類を横へ押して、ファイルを開く。
「ひとことで言ってしまえば、ここに来たとき、うみの中忍は死んでいました」
例によって淡々とした口調で、シギは事実を語り始めた。
研究所を出たころには、もう夜も更けていた。
里に向かって全速力で走る。木々を渡り、急な斜面を滑るように下りていく。
謹慎はあと一日。本来なら自宅から一歩も出てはいけないのだが、どうせもう禁を破ってしまった。おそらくいまごろ、シギから火影に連絡が行っているはずだ。
見て見ぬふりをしててくれると、ありがたいんだけどな。
カカシはこれから為すべきことを頭に浮かべ、先を急いだ。
十一の章へ続く