『寒椿』
byつう
八の章
星が、満天に散らばっていた。
冬の夜空は澄み切っていて、身の内にあるよどんだものを吸い上げてくれるような気がする。
「怒られるかと、思っていました」
並んで歩きながら、カカシは言った。
「怒られる?」
黒髪の中忍は、ちらりと視線を向けた。
「ナルトに怪我をさせて……。ビンタは覚悟してたんですけどね」
本心だった。自分がちゃんと、南ルートの下見をしていれば防げた事故だ。指示だけ出して、万一のときのフォローを考えていなかった。指導教官としては最低だ。
『いまのうちに、たーんと怪我しといてねー』
碧眼を細めて、若き四代目は言った。
『なーんの心配もなく怪我できるなんて、いまだけなのよ。実戦に出たら、怪我は命取りだからね。どうやったらどーゆー怪我するか、とか、応急処置とか、ちゃーんと覚えるんだよ』
脱臼の整復や骨接ぎのやり方を実地で教えながら、金髪の青年は楽しそうだった。したたか叩きのめされたあとに関節をいじられて、こっちは地獄の苦しみだったのだが。
『これの応用で、縄ぬけなんか楽勝だからねー。ま、おまえが捕まるっていったらよっぽどだろうけど、覚えておいて損はないよ」
たしかに、そうだった。それまでにも、子供だからという理由で囮や潜入任務に就いたことは多々あったから。
むろん四代目は、自分をそんな道具のように使うことはなかった。
『おまえもオレも、相手も人間だよ。でも、忍を職業にしちゃったから、命のやりとりするのは仕方ないよなあ。まあ、おまえには職業選択の自由はなかったけどさ』
大きな手が、カカシの銀髪を撫でる。
『いまの世の中、望み通りになる方が少ないんだから、それをどうこう言ってても始まんないでしょ。だったら人生、いいように考えなきゃ損だって』
おそらく彼自身も、「四代目」となるのに様々な揺らぎを経験してきたのだろう。あのころの自分には、それを察する余裕はなかったが。
ナルトたちと接して、はじめてわかった。彼がいかに心を砕いていたか。
自分はまだ、彼のようにはなれない。今日のことにしても、結局は我を優先してしまったのだから。
「そうですね。もし……」
なにやら思案しながら、イルカは言った。
「ナルトが指一本でもなくしていたら、ビンタじゃ済まなかったと思いますよ」
「てことは、今度はグーですか?」
「さあ。どうでしょう」
冷ややかな声。
「ご想像におまかせします」
小さく笑みを浮かべて、イルカは歩を進めた。
……まいったな。
久しぶりに、本当に久しぶりに、カカシは無意識のうちにクナイを握るところだった。それは幼いころに刷り込まれた基本プログラムのひとつ。
殺気を向けてきた相手は、だれであろうと殺すこと。
いま、間違いなく自分は殺気を感じた。凍りつくような、鋭利な感覚。
ナルトのことだと、この人はこんなふうになるのか……。
月明りに、結わえた黒髪が揺れる。
ほしい。
切実に、そう思った。たぶんこれは、はじめての感情。
理由などない。そんなものは要らない。ただひたすらに、この人がほしい。
この人のまとっている鎧をすべて剥ぎ取って、生まれたままの姿にして、なめらかな肌に、心に、この手で標を刻みたかった。
「どうかしましたか」
わずかに先を歩いていたイルカが振り向いた。あいかわらず、空気を読むのが早い。
「いえ、べつに」
カカシは意識的に、ゆっくりと言った。
「晩飯に、誘おうかと考えていたところです」
「せっかくですが」
「先約でも?」
「いいえ。少々……疲れましたので」
それはそうだろう。あれだけの「気」を内包しているのだ。心身ともに負担は大きいはず。
「そうですか。だったら無理には誘いません。でも、疲れたときはちゃんと食べた方がいいですよ」
イルカの家の台所を思い出しながら、続ける。
「このまま帰って、なんか食べるもの、あるんですか」
「弁当でも買います」
「本当に?」
「……なにが言いたいんです」
むっとして、イルカは立ち止まった。カカシも足を止める。
「きのう、先生んちに寄らせてもらって思ったんですけどね。あんた、自分ちでメシ食ったこと、ないでしょ」
イルカの唇が、ぐっと結ばれた。
「あるとしても、年に数えるほどじゃないんですか? 栄養剤だけじゃ、体によくないですよ」
「おれがなにを食べようが食べまいが、あなたには関係ないでしょう。それで仕事に支障が出たこともありませんし」
「仕事のことなんか、どうでもいいです。俺はあんたの上司じゃないんだから」
カカシはイルカの顔を覗き込んだ。
「ただ、ねえ。一生に食べるメシって、八十まで生きたって八万食ぐらいなんですよ。こんな商売やってりゃ、いつ死ぬかもわかんないのに、どうせなら旨いもん食わなきゃ」
「旨いもの……ですか」
イルカの頬が微妙に歪む。
「たとえば、どんな?」
「どんなって、べつに贅沢しろとは言いませんよ。炊き立てのごはんとか、熱い味噌汁とか、いい塩加減の焼魚とか……」
「わからないんですよ、おれ」
ぼそりと、イルカは言った。
「え?」
「味覚障害っていうんでしょうか。とにかく、なにを食べても味がほとんどわからないんです」
初耳だった。文庫の資料も暗部の記録も、当てにならないじゃないか。
「だから、咀嚼するのが億劫で。錠剤で経口投与できるものはそうして、あとはアカデミーの演習用の非常食とか携帯食料ですね」
そういえば、思い当たる節はある。
食堂でも居酒屋でも、イルカはほとんど料理に箸を付けることはなかった。自分を警戒しているせいかと思っていたが、本当の理由はこれだったのだ。
「それって、いつごろからです」
「さあ……。もう、忘れてしまいました」
そんなに前からなのか、あるいは覚えていても言いたくないのか。
イルカはふたたび、歩き始めた。
今日はここまで、だな。カカシは判じた。
すぐ横で、黒髪が揺れている。月の光に映し出された白い面は、陰影がくっきりついて異様なほどに美しい。
満月には、人を狂わす魔力がある。そんな迷信を信じてしまいそうな夜だった。
この人と、ともに狂うのもいい。それしか、この人を手に入れる方法がないのなら……。
そこまで考えて、カカシは首を振った。
馬鹿なことを。今夜は十三夜。まだ魔物は目覚めていない。
『そうそう。あきらめちゃ駄目だよー』
いまはもう、陽に溶けてしまった彼の、声が聞こえたような気がした。
九の章へ続く