『寒椿』


byつう

七の章

 なんだったんだ、いったい。
 閉じられた扉を、イルカはぼんやりと見つめた。
『お茶を一杯、めぐんでくださいよ』
 カカシは言った。イルカはそれを、家に上がり込むための口実だと解した。
 花街まで行って散財して、女も抱かずにどういうつもりかと思えば、結局はこれか。
 イルカは頭の中で、これから起こることをシミュレートした。中に入るなり、いきなり事を始められては困る。いまは冬で、台所の床は冷たい。とりあえず、さっさと夜具を敷いて用意しよう。なるべく早く帰ってくれればいいのだが。
 そんなことを考えながら、カカシを家に入れた。奥の八畳に蒲団を敷き、夜着に着替えて六畳間に戻る。襖を開けたところで、すぐに奥へ押し返されると思っていた。それが。
 カカシは卓袱台の前にすわっていた。そして、水を一杯飲んで帰っていった。
『おやすみなさい。また、あした』
 また、あした。
 あしたもまた、おれはあの男の行動に神経をすり減らされるわけか。なにが目当てなのかもわからぬ男に。
 体がほしいなら、いつでもくれてやる。退屈しのぎにからかうだけなら、余計な金を使う必要はない。おれが目障りなら、処分すればいい。殺すなりクビにするなり、どうとでもできるのに。
 イルカは発作的に、カカシが使ったコップを取って、三和土に投げつけた。派手な音がして、硝子が飛び散る。
 いっそのこと、壊してくれ。その方が、まだましだ。壊れても潰れても、文句なんか言わない。いまさらそれを畏れる理由などないのだから。
「……っ!」
 無意識のうちに、硝子の欠片を掴んでいたらしい。
 まだ、痛みは感じるのか……。
 イルカは笑った。たしかに、自分は生きている。三和土に滴る鮮血が、それを如実に物語っていた。





 翌朝。
 事務局に着くなり、イルカは火影に召された。館の本殿。表方を通して執務室に入ると、火影は待ち兼ねていたかのように顔を上げた。
「おお、来たか」
 椅子から立って、卓の前に出る。イルカは跪座して、礼をとった。
「事務局の、人事のことじゃが」
 火影は局長の更迭を決めたことを告げた。過日、アスマから聞かされていた通り、経理と結託してなにがしかの利益を不正に得ていたらしい。
「査察部から、そなたを証人として喚問したいという申し入れがあってのう。業務に障りがなければ、応じてくれぬか」
「承知」
 イルカは深く、頭を垂れた。
「局長の人事はまだ調整中ゆえ、暫時、そなたが事務の統括を行なうように」
「……わたくしでは、役不足かと存じますが」
 控え目に、言上する。
 事務局には古参の職員が多く在籍している。若輩の自分などが前に出て、うまく納まるものではあるまい。
「なんの。ほんのひと月ほどのことじゃ。事務方ではそなたに一目も二目も置いておる。心配は要らぬよ」
 すでに話は通してあるようだ。イルカは局長代行を拝命して、火影の館を辞した。
 査察部での事情聴取は午後までかかり、局長(厳密に言えば前局長であるが)と経理主任の抗弁の裏を取るのに、さらに幾刻かを要した。調書の確認をして査察部を出たのは、もう空が薄墨色に染まるころだった。
 事務局へ戻ると、同僚が机の上を片付けているところだった。
「おう。うみの。たいへんだったなあ」
 結局、今日の仕事を全部肩代わりしてもらったことになる。
「いや、こっちこそ、すまなかった。よかったら、一杯やりにいかないか。おごるよ」
「悪い。今日はヤボ用があるんだよ。ひとつ貸しにしとくから、この次、頼むわ」
「わかった」
「じゃ、お先に」
 同僚はにんまりと笑って、事務局を出ていった。
 古参の職員たちはすでに帰宅しているらしい。無人になった事務局で、イルカは職員の勤務日程表を開いた。
 明日から一カ月、事務局を任される。業務が滞らないように、細心の注意を払わねばならない。いまのところ、とりたてて急ぎの仕事もない。通常のシフトで十分対応できるだろう。万一に備えて、少しゆとりを持たせてもいいが。
 各々の担当分野を少し整理するかな。赤ペンを片手に思案をしていると、戸口から見慣れた顔が現れた。
「あれえ、まだいたのかい」
 アスマだった。
「査察部から直帰したのかと思ってたが」
「ちょっと、下準備をしておこうと思いまして」
「下準備? ああ、局長がクビになったんだったよな。で、おまえさんが後釜かい」
「いいえ、滅相もない。中継ぎですよ」
「ふーん。どうせ、だれが来てもおまえさんが仕切るのには変わりないのになあ」
 あっけらかんと、アスマは言った。
「ときに、おまえさん。九尾のガキが怪我したって知ってるか?」
「ナルトが?」
 初耳だ。
「いつ。どこでです」
 今日は七班の任務はなかったはずだ。とすれば、訓練中か。
「一刻ばかり前に、医療棟に運ばれてったよ。カカシのやつ、おまえさんが心配で、ガキどもに自主トレさせて査察部に張り込んでたらしくてなあ」
 結果、訓練中の事故に気づいたのはサスケだった。裏山の南ルートに、以前の演習の折に埋められた地雷が撤去されずに残っていたらしく、ナルトはそれを誤って踏んでしまったらしい。
「それで、まだ医療棟にいるんですね」
「ああ。とりあえず今晩は泊まるって……」
「失礼します」
 書類を引き出しに放り込むと、イルカは足早に事務局を出た。



 なんてことだ。自分の担当する下忍の訓練をほったらかしにするなんて。
 その理由が、緊急の任務などではなく、自分だというのがまた腹立たしい。査察部の事情聴取など形式的なものだ。単なる事実確認。仮にも上忍なら、それぐらいのことは十分わかっていただろうに。
 ナルトにもしものことがあったら、自分はあの男を許さないだろう。
 うずまきナルト。意地っ張りで向こう見ずで、いつも一生懸命なやつ。
 たったひとりで生きてきて、おそらくこれからも、たったひとりで戦わねばならない。九尾の封印が為されなかったとしても、その運命に大きな違いはなかったはずだ。
 イルカは医療棟に駆け込んだ。ナルトの病室には、当たり前だがカカシがいた。
「ナルト……」
「しーっ。静かに」
 カカシはそう言って、人差し指を口布の前に宛てた。
「いま、眠ったところなんです」
 カカシの肩越しに、あどけない寝顔が見えた。イルカはそっとベッドに近づき、様子を窺った。
「……地雷を踏んだそうですね」
 固い声で、訊く。
「演習用の地雷でしたから、威力はたいしたことないです」
「四肢の欠損などは?」
「ありませんよ。一カ所ヒビが入ってますが、たいしたことはないです」
 不幸中の幸いだ。それにしても、ぴくりとも動かない。頭部に傷は見当たらないが。
 イルカはナルトの額に手をやった。ほぼ平熱。いや、ナルトは平均体温が低いので、微熱ぐらいはあるか。
「大丈夫ですよ」
 カカシが横から言った。
「じつはさっきまで、家に帰ると駄々をこねてましてねえ。薬で無理矢理、寝かせたんですよ。医者も一晩は経過を見た方がいいと言うし」
「そうですか」
 それなら、安心だ。イルカは手をはなして、ベッドから離れた。
「あれ、もう帰るんですか?」
 カカシが訊いた。
「はい。大事はないようなので……。それに、よく眠っていますし」
 容体さえ確認できれば、それでいい。これ以上、この男と一緒にいるのは嫌だった。
「じゃ、俺も帰ります」
「え?」
「そろそろ帰ろうかなーって思ってたんですよ。そこまで一緒に行きましょう」
 藍色の目を細めて、カカシは言った。病室のドアを半分ばかり開けて、促す。
 気は進まなかったが、ここで断って騒ぎを起こすわけにもいかない。イルカは小さく首肯して、カカシとともに病室を出た。






八の章へ続く

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