『寒椿』


byつう

六の章

 イルカの顔が、またひとつきれいに、しかし無機的に形作られていく。
「どうぞ」
 そう言う声も表情も、だれかがどこかで操っているかのようだ。あらかじめ決められた動作と台詞を、完璧にこなす。それは先刻観た妓女たちの踊りのように、一寸の隙もない美しさだった。
「着替えてきます」
 玄関の戸を閉めるなり、イルカは言った。三和土から台所に上がり、六畳間を横切って奥へ入る。
 また見事に誤解してくれて。
 カカシは口の端を持ち上げた。ま、わざと誤解を招くような言い方をしたんだけどね。
 卓袱台の前にすわって、室内を見回す。なんとも殺風景な部屋だった。
 もう長いあいだここで暮らしているはずなのに、まったくと言っていいほど生活感がない。流し台の上には洗い桶もないし、コンロも汚れていない。水屋はあるが、硝子ごしに見るかぎり隙間だらけで、食器らしい食器もない。代わりに薬瓶のようなものがやたらとたくさん並んでいる。ビタミンやカルシウムなどの錠剤だろうか。それにしても数が半端じゃない。
 ナルトの家と正反対だな。
 カカシは、雑然としていて、台所もテーブルもベッドも物置きと化している1DKの部屋を思い出した。
「おまえ、これでどうやって、寝たりメシ食ったりしてるわけ?」
 カカシが訊くと、ナルトはバサバサッとテーブルの上のものを払い落とし、
「ほらほら、空いたってばよっ」
 と、にかっと笑った。冷蔵庫から麦茶を出して、コップとともにテーブルに置く。
「あったかいもん、ないの」
「湯、わかすの面倒くさいもん」
 ナルトは年中、飲物といえば水出し用の麦茶と牛乳の二本立てらしい。アカデミーに入る前からひとりで暮らしていて、身の周りのことはなんでも自分でやってきたと言っていた。
「でも、学校行くようになってからは、イルカ先生がよく来てくれたんだ」
 うれしそうな、ナルトの顔。
「先生も、アカデミーのころからひとりで住んでたんだって。『おれにできたんだから、おまえにもできる』って」
 本当に、子供にはやさしい。寄り添って、見つめて、背を叩く。
 そういうことができる人なのに。
 この部屋には、実際の気温よりもはるかに低温の空気が流れている。それは、住む者の心の温度。あの人の心は、いま氷点に近い。
 襖が音もなく開いて、イルカが六畳間に戻ってきた。いつもはきっちりと結わえている髪をおろし、夜着に上衣を羽織ったその姿は、まさに「触れなば落ちん」といった風情だ。
 カカシがすわっているのを見て、イルカは台所に立った。水屋からコップを出して、水を注ぐ。
 木の葉の国は岩の国や砂の国と違って清水に恵まれていて、水道水をそのまま飲んでも腹を下すことはない。八分目ほど水の入ったコップが、卓袱台の上にコン、と置かれた。
「おれは茶は飲みませんから。酔い醒ましなら、これで十分でしょう」
 例によって、固い口調だ。
 どうせ茶を飲みに来たわけじゃないんだから、なんだっていいだろう。言外の声がそう告げている。カカシはコップを手にとった。
「いただきます」
 ゆっくりと、水を飲む。イルカは卓袱台の向かい側に正座し、カカシの手元を見つめていた。
 いまここで、自分がコップを置いて卓袱台を脇へ押しやっても、イルカは微動だにしないだろう。上衣に手をかけ、そのまま押し倒したとしても抵抗などするまい。そして、簡単に事は成る。
 そう。体を繋ぐのは簡単だ。自分は上忍で、この人は中忍なのだから。
 イルカもそう思ったに違いない。それぐらい、簡単なことだ、と。
 カカシは水を飲み干した。そっと、コップを卓に戻す。
「ごちそうさまでした。おかげさまで、すっきりしました」
 にっこり笑って、立ち上がる。イルカは眉をひそめて、カカシを見上げた。
「おやすみなさい。また、あした」
 イルカの横を通り、三和土に降りる。履物をつっかけて、玄関を出た。
 うしろは見なかった。見る必要もない。
 きっとあの人は混乱している。俺がなぜ、なにもせずに引き上げたのか、いまごろ懸命に考えているだろう。これまでのデータをフル活用して。
 少なくとも二十分、いや、三十分ぐらいは俺のことだけ考えてくれるかも。
 冴えざえとした月をながめながら、カカシは頬がゆるむのを感じた。





 翌日。
 事務局には、イルカの姿がなかった。
「あれえ、イルカ先生、休みなの」
 代わりに受付にいた職員に訊くと、火影の指示で外に出ているという。
「きのう、そんなこと言ってなかったけどなあ」
「今朝いちばんに、ご下命があったようです」
 イルカと同期だというその職員は、そっと小声で続けた。
「経理課の主任と、うちの局長がまずいことやってたみたいで、うみののやつ、事情聴取に立ち会ってるんですよ」
 ほかの人には内密に、と念を押す。
 どうやら、イルカと自分が懇意にしている(あくまでも表向きは、だが)ので、特別に教えてくれたらしい。なかなか融通のきくやつだ。
「じゃあさ、もうひとつだけ。それって、査察部の管轄? それとも……」
「査察部ですよ。あの局長が、そんな大それたことができるもんですか」
 査察部なら、本当に「事情聴取」なのだろう。諜報局だと事情聴取という名目で拘束して尋問(要するに拷問)、ということもありうるが。
「七班は、今日は任務は入ってませんね。演習場の予約を入れましょうか?」
 任務のない日は訓練に当てるのが通例だ。
「んー。いや、いいよ。山登りさせるから。今日、南のルート、トラップ仕掛けてもいいのかな」
 アカデミーの裏山は、実戦演習でしばしば使われている。ほかの班と予定が重なってはまずい。
「結構です。午後五時まででいいですか」
「そんなもんかなー。あ、サイン、代わりに書いといてよ」
 差し出された書類を押し返しつつ、言う。職員は苦笑して、
「おれは、うみのじゃないですからね。はたけ上忍の筆跡なんて真似できませんよ」
「イルカ先生、そーんなことしてたの」
「はい。……って、あ、これ、バラしちゃまずかったかな」
 職員は肩をすくめた。融通がきくだけでなく、茶目っ気もあるらしい。
「聞かなかったことにしとくよー」
 カカシは書類にサインをして、事務局を出た。




「まず一斉にトラップを仕掛けながら山頂まで行って、それから時間をずらして、ひとりずつ山を下る。みんな自分のトラップはわかってても、ほかのふたりのはわかんないだろ。怪我しないように、がんばるんだよー」
 ナルトたちに自主トレの指示を出してから、カカシは査察部に向かった。
 あの局長と経理主任は同じ穴のムジナだ。いつかは首を切られると思っていたが、イルカまで召集されるとはどういうことなのだろう。
「おんや、めずらしいとこで会うねえ」
 査察部の会議室前で、アスマがカカシを呼び止めた。
「報酬の二重取りしてたって、自首でもしに来たのかい」
「してなーいよ。盆暮れの付け届けはありがたーく頂戴してるけど」
「へいへい。俺も一度でいいから、付け届けが給料を上回るような生活してみたいもんだ」
 ふーっ、と大きく、紫煙を吐く。カカシは会議室の様子を窺った。
「イルカ先生、まだ中にいるの」
「ん? ああ、いろいろ、ウラ取ってるみたいだな」
「裏?」
「事務局のことはもちろん、経理のこともいろいろ知ってるからねえ、イルカは」
 イルカ、ね。カカシはちろりとアスマをにらんだ。
 まあ、昔の部下だし中忍だし、呼び捨てにするのはかまわないけど、わかってて言ってるだろ。まったく、嫌なやつだ。
「そんな顔しなさんなよ。片目だけでも、十分、恐い」
 アスマは煙草をもみ消した。
「だいたいおまえ、どういうつもりで、あいつにちょっかい出してるんだ?」
「どうもこうも、おまえに関係ないだろ」
「それを言っちゃおしまいだがな。ただ、あいつの元上司として、ひとことだけ言わせてもらう」
「拝聴するよ」
「あいつを殺せないなら、近づくな」
 常よりもさらに低い声で、アスマは言った。カカシは藍色の眼をわずかに見開いた。
「いつか、だれかがあいつを殺さにゃならん。その覚悟がないなら、これ以上は……」
「勝手なこと、抜かすな」
 カカシの声音が、変わった。
 殺さなくてはならない、だと? だれがそんなことを決めた。だれが、なんのために。
『死にたいなんて、思ってませんよ』
 あのとき、イルカはそう言った。だからといって、生きたいわけでもないようだったが。
 それでも、「死にたい」のと「生きたくない」のとは違う。
「俺は、あの人に惚れてる。だから殺さない。おまえにも、だれにも、殺させない」
 隻眼が、強い意志を持ってアスマに向けられた。アスマはそれを真っ向から受けとめた。数瞬ののち。
「それが、できりゃあな」
 独り言のように呟いて、アスマは踵を返した。
 カカシはその背を見送りながら、イルカの抱える闇の深さをあらためて感じていた。





七の章へ続く

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