『寒椿』
byつう
五の章
日もとっぷりと暮れて、花街の木戸に次々と灯がともりはじめた。
気の早い遊客は木戸が開くのを待って馴染みの店に消えていく。この時間帯は、水揚げを終えたばかりの若い妓女たちが階下の格子で顔見せをしていて、新顔を求めて通う客も多い。
東雲楼はその名の通り、花街の東の一角にある妓楼で、遊芸に秀でた妓女を揃えていることで有名な店だった。
廓は究極のところ、女と遊ぶ場所である。が、単に枕を交わすだけなら高い金を払って楼の敷居をまたぐ必要はない。客の夜伽のために遊女を囲っている旅籠もあるし、酒場を流して歩く夜鷹もいる。
花街の妓楼がそれらと一線を画しているのは、妓女たちに書画や楽や舞踊などを教え、一通りの学問を修めさせている点だ。
東雲楼はとくに舞踊に力を入れている店で、妓女の装束もほかと違って奇抜なものが多かった。とはいえ、一流どころの妓楼である。品のない装いをしたという理由で楼を出され、格下の店に移った妓女もいるらしい。
「とにかくねえ、みんな、明るい人たちなんですよ」
客引きの声の中、東へ向かって歩きながらカカシは言った。
「きっと、イルカ先生にも気に入ってもらえると思うんですけど」
気に入ったところで、馴染みになれるわけもない。中忍の俸給では、「二煎目」と呼ばれる二流以下の店で遊ぶのがせいぜいだ。
平手打ちの一件以来、カカシはイルカに付きまとっていた。
任務のないときは事務局の長椅子でイチャパラを読んでいたり、暇そうな人間を見つけては賭け将棋に興じている。一応は衝立の奥でやっているので受付からは見えないのだが、上忍が事務局で賭け事をしているのは風紀を乱す要因にもなる。
「そういうことは、上忍控室でやっていただけませんか」
とうとう今日、イルカはカカシに抗議した。事務局の職員は、皆、遠巻きに様子を見ている。局長は体調不良を理由に、もう三日も欠勤していた。
「え、どうしてですかー?」
ガイを相手に勝負を始めようとしていたカカシが、間延びした口調で訊ねた。
「仕事中に横で賭け事などされては、労働意欲が低下します。事務処理の遅れは後々、現場のシフトにも影響しますので、今後ここでの類似行為はご遠慮ください」
「はあ、類似といいますと」
「遊戯に属する行為全般です」
「お茶を飲むのは?」
「……それくらい、かまいませんが」
「煙草は」
「結構です」
「じゃ、酒」
「駄目です!」
思わず手を上げそうになって、イルカは慌てて拳を握った。いくらなんでも、二度目はまずい。事務局全体の責任を追求されかねないから。
「あーあ、また肩に力、入っちゃって」
カカシは将棋の駒を片付けながら、言った。
「人生、もう少し楽しまなきゃ損ですよ」
それが、これか。
イルカは東雲楼のきらびやかな建物を見上げた。人生の楽しみ。それが遊郭とは、単純というか即物的というか。
これまでも、人生にはゆとりが大事だとか遊びが必要だとかいう理由で、居酒屋やら雀荘に付き合わされたことは何度もあるが、さすがに遊郭ははじめてだ。
「なにやってんですか? 迷子になりますよー」
前方から、大きな声。べつにここで迷ったって、ちゃんと帰れるよ。筆下ろしに来たガキじゃないんだから。
「さあさあ、入った入った」
カカシはイルカの肩を抱くようにして、東雲楼に足を踏み入れた。
たしかに、「二煎目」の店など足元にも及ばぬほど、東雲楼の妓女たちは美しかった。外見だけではなく、立ち居振る舞いや物言いもじつに自然で過不足なく、しかも客を持ち上げることも忘れていない。
一般に花街の妓女は髪を様々な形に結い上げて、それにかんざしを差して組紐で飾るのだが、東雲楼では皆、高い位置で束髪にしていた。ほかの楼との差を明確にするための楼主の意向なのかもしれない。
舞踊が看板だというだけあって、趣向の違う踊りが次々と披露され、またたくまに時間が過ぎた。
「ねーっ、わりと楽しいでしょ」
カカシは杯を口に運びながら、イルカに話しかけた。
「わりと、とは、聞き捨てなりませぬなあ」
カカシの横にいた妓女が、ちろりと流し目を送る。楼一の妓女、紫太夫である。
「主さまは、妾をたんとお好きじゃと思うておりましたに」
「失言でした。好きですよ、太夫。でもね、この人は遊びに疎い人だから」
「お連れさまが? はて、そうは見えませぬが。のう、楓」
「しかり。こちらのおかたは、われらをたいそう、よう見てくだされて」
楓と呼ばれた妓女は、にっこりと笑ってイルカに酒を勧めた。イルカは軽く会釈して、それを受けた。
たしかに楓の言うように、イルカは妓女たちの一挙一動を興味を持って見つめていた。なんであっても、プロの仕事というのは一見の価値がある。ましてやここは、自分の甲斐性では二度と来ることはできないだろう格上の妓楼である。そこで働く者たちを見るのは、じつに面白かった。
「あーらら。もしかして、今日はふられるのかな、俺」
カカシは冗談めかして、言った。太夫は扇で口元を隠して、ころころと笑った。
「いつもは妾が袖を濡らしておるのじゃ。たまには主さまも、のう」
「はーい。いい子でいますよ。だから太夫、また遊んでくださいね」
「しかり。されば次のお渡りまでに、春の踊りを仕上げておきましょうぞ」
太夫は扇を閉じると、膳の上の鈴を鳴らした。それが、宴の終わりを告げる合図だった。
一流の妓女は、たとえ馴染みの客であっても意に染まねば床入りをしないことがあるとは聞いていた。が、それはいわば庶民の希望的観測で、実際は遊女が客を拒むことなどできないと思っていた。
もっとも、カカシは最初からそのつもりではなかったようだが。
「よかったんですか?」
帰途、イルカはカカシに訊ねた。月明りに、ふたりの影が長く伸びている。
「なにがです」
「わざわざ東雲楼まで行って、泊まらないなんて」
「イルカ先生は、泊まりたかったんですか?」
「え、いえ、そういうわけでは……」
「まあ、次に期待しまょうねー」
「次?」
次も自分を連れていくつもりなのか。
なにを考えているのだろう、この男は。今日の支払いだけでも、イルカの給料一カ月分は下らない。このうえ床を取って朝までいたら、どれぐらいの金額になるのだろう。
「イルカ先生ー。計算しなくていいですよ」
しまった。顔に出ていたか。イルカは頭に浮かんだ数字を脇へ追いやった。
「あそこはねー、命の洗濯をしにいくとこなんで、あれでいいんですよ」
「命の洗濯……ですか」
「そ。みんな芸に命賭けてますからねえ。床入りはおまけみたいなもんです」
遊女の床入りがおまけとは、ずいぶん思い切ったことを言う。
「あ」
急に、カカシが立ち止まった。イルカも足を止める。
「どうかしましたか?」
「いま、笑いましたよね」
ずいっと顔を近づけて、カカシは言った。
「うん。たしかに、笑った」
「そんなこと、知りませんよ」
イルカは顔をそむけた。笑った? おれが?
だったら、どうだと言うんだ。あまりに馬鹿馬鹿しい話だから、口元がゆるんだだけだ。
「うーん、一秒か。せめて三秒はほしかったなー」
しきりと、カカシは悔しがっている。イルカはそれを無視して、歩を進めた。もうすぐ自宅だ。早く帰って休みたい。
「あ、待ってくださいよー」
カカシは小走りについてくる。三叉路のところで、イルカはくるりと振り向いた。
「本日は、ありがとうございました」
きっちりと、頭を下げる。
「では、失礼いたします」
中忍としての業務は、これで終わりだ。そう思ったとき。
カカシの足が、イルカの家に向かって進み出した。
「カカシ先生……」
顔を上げて、あとを追う。イルカの家は川沿いに面した古い貸家だった。カカシはその前まで来て、足を止めた。
「お茶を一杯、めぐんでくださいよ」
茶だと?
イルカは目の前にいる銀髪の男を見据えた。
「のどが乾いちゃって」
なるほどね。
「酒、飲み過ぎたかな」
おれを、おまけにするつもりか。
イルカは急に、可笑しさがこみあげてきた。
結局はそれじゃないか。だったらなにも、余計な手間をかけなくてもよかったのに。
あのとき、ひとこと言えばよかったんだ。『脱げ』と。
「どうぞ」
声が、勝手に出た。
「せまいところですが」
今日の仕事は、あとひとつ。
イルカはカカシを、招き入れた。
六の章へ続く