『寒椿』


byつう

三の章

 死にたいなんて、思ったことはない。
 自分は、死ねないのだから。
 あの日からずっと、この現し身を永らえさせるためにあらゆる手段を嵩じてきた。そのために、心などというものは早々に切り捨てて。
 忍として日々を過ごしていくのには、その方が都合がよかった。情に流されるのは最悪だ。無駄にエネルギーを費やし、為すべきことを果たせない可能性が高い。
 忍の里に生まれたことは、自分にとって幸いだったのかもしれない。少なくとも、生きる術を探す必要はなかったから。
 両親を失い、火影の援助を受けながらアカデミーに通い、下忍になった。可もなく不可もなく任務をこなし、中忍試験に合格したのはのは十六のときだった。そして、その二年後。
『そなたは、里におれ』
 火影は言った。苦渋に満ちた顔で。
『承知』
 イルカはそれ以外に、言葉を知らなかった。





 火影の館は、公務を執り行なう本殿と私邸ともいうべき奥殿に分かれていた。奥殿の文庫には、過去の任務に関する機密書類や古文書など、門外不出の書類が多く納められていて、ここに出入りできるのは原則として火影と長老、そして上忍だけであった。
 その文庫に、イルカはいた。
 先日、事務局長と交渉した砂の国関連の作戦に関して、布陣を再考する必要が生じ、新たに叩き台を作成することになったのだ。局長は、文庫への出入りを許されているという理由で、イルカにそれを一任した。
「自分で処理できないようなら、安請け合いしないでもらいたいよな」
 ため息まじりに独白しつつ、山のような資料を分類していく。
 たしかに文庫の資料が不可欠な作業ではあったが、そんなことは火影に上申するか上忍のだれかに依頼すれば済む。それを、わざわざイルカに命じたのは、厄介事から早めに手を引こうという局長の姑息な計算だろう。
「ったく、あのクソおやじ」
「それじゃ、幻滅されちまうぜ」
 戸口から、地を這うような低音が聞こえた。
「目上の者を敬うよう、ガキどもに教えてるんだろ」
 煙草を口の端にはさんだまま、髭面の男が中に入ってきた。
「目上だろうが目下だろうが、最善を尽くしている相手には敬意をはらえと教えてますよ」
 言いながら、ちろりと視線を遣る。
「アスマ隊長、文庫は禁煙です」
「へいへい。わかってるよ」
 携帯用の灰皿に煙草を押しつけ、アスマは机の横に立った。
「砂の件か?」
「ええ」
「おまえさんも、大変だねえ」
「もう慣れてます」
「ま、あの局長、近々飛ばされるから安心しな」
「どういうことです」
 イルカは手を止めて、訊ねた。
 局長が左遷されようがクビになろが知ったことではないが、いまは時期が悪い。なにしろ、自分はつい先日、上忍を公衆の面前で殴った。あの件に関しては不問に伏されたが、局長更迭となれば、それが要因だと思われるかもしれない。
「経理の古株と組んで、ちゃちな横領やってたみたいだぜ」
 アスマはにんまりと笑った。
「次のやつは、おまえさんが使いやすいようなやつだといいがね」
「……いくら文庫だからって、そういう言い方はやめてください」
「壁に耳あり、ってか? ほーんと、用心深いんだな」
 アスマはどっかりと、向かい側の椅子に腰を下ろした。
「で、実際んとこ、どうだったんだよ」
「なにがです」
「カカシのことだよ。上忍殴って無事だった中忍なんて、聞いたこともないからな」
 噂になっているのは、知っている。
 うみの中忍ははたけ上忍の弱みを握っているのだろうとか、はたけ上忍はうみの中忍に「ほの字」なのだろうとか。ひどいものになると、人権侵害としか言えないようなものまである。
「あなたは、どう思っているんですか」
 逆に、訊いてみる。
 アスマは世間の風評に左右される男ではない。それに少なくとも、あの男よりは自分を知っている。
「さあてね。全部、ちょっとずつ当たってるんじゃねえの。ま、おまえさんが命乞いしたっていうのだけはないだろうけど」
 イルカは微笑した。
「隊長の判断は、いつも的確ですね」
「そりゃどうも」
 アスマも同じように笑みを返す。
「けどよ、イルカ」
「はい」
「隊長ってえの、いい加減、やめろや」
 アスマの瞳が、わずかに翳った。
「俺もここんとこ、里に腰を落ち着けてるんだしよ」
 イルカはしばらく、糸の切れた人形のように動かなかった。
 そうだ。自分たちはいま、里にいる。前線ではないし、敵国でもない。少なくとも、任務をまっとうするために、あらゆるものを犠牲にする必要はないのだ。
 犠牲。そんな意識すらなかった、あのころ。いや、いまでも、自分では犠牲だなどとは思っていない。それを定義したのは、目の前にいるこの男だ。
「……わかりました」
 抑揚のない声で、イルカは言った。
「では、なんと?」
「そうさなあ。猿飛上忍、なーんて虫酸が走るし、適当なところで『アスマ先生』ってとこかな」
 途端に、イルカはくすくすと笑い出した。
「なんだよ。俺が先生じゃおかしいか」
 不本意、と顔に張り付けて、アスマが抗議した。
「いえ、そうではなくて……」
 イルカは息を整えて、続けた。
「以前、あの人にも同じことを言われたんですよ」
「カカシに、か?」
「ええ。ふたりともあいつらの先生だからって」
「なんか、嫌だな」
 不本意、が二乗になる。
「あいつの二番煎じなんて」
 無意識なのか、懐から煙草を取り出す。
「文庫は禁煙ですよ。……アスマ先生」
 きれいな発音で、イルカは言った。アスマはぽりぽりと頭をかきながら、立ち上がった。
「んじゃ、行くわ」
 いったん戸口に向かい、思い出したように立ち止まる。
「ああ、そうだ。もうひとつ」
「はい」
「あいつのこと、なんとかしてやろうか?」
 あの日から、カカシはなにかといってはイルカに付きまとっている。アスマは噂の真偽を確かめがてら、様子を見に来たのだろう。
 イルカは資料を置いて、起立した。
「ご心配をおかけいたしました。その件に関しましては、当方で対応できると思います」
 きっちりと、最敬礼をする。アスマは口の端を持ち上げた。
「了解した。が、業務に支障が出るようなら、上申書を提出するように」
「承知」
 頭を下げたまま、イルカは答えた。
 かつての上司が、文庫を出ていく。扉の閉まる音を聞いてから、イルカはゆっくりと頭を上げた。
 カカシは、おそらくどんな外圧にも屈しないだろう。自らが欲するところを為す。それまでは諦めまい。
 問題は、なにを欲しているかということ。それが判然としないのだ。
 この身か、命か、あるいはただ気晴らしにいたぶるだけなのか。それがわかれば、対処の仕様もあるのだが。
『これからも、いろいろ、楽しませてもらいますねー』
 クナイを引いて、あの男は言った。
『俺がやりたいときに、やりたいようにして楽しみますから』
 いいよ。べつに。あなたは上忍で、おれは中忍だ。あなたのやりたいように、やればいい。もっとも、それで楽しめるかどうかは知らないけれど。
 イルカはぐっと唇を結んで、ふたたび資料に向かった。




四の章へ続く

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