『寒椿』
byつう
二十二の章
気がついたときには、もう右手が動いていた。
鋭い音。痺れるような感覚。
「あ……」
カカシは自分の右手をじっと見つめた。なにをしたのだ。いま……。
イルカが唇を結んで、こちらをにらんでいる。左頬についた指の跡。
つい、手が出てしまった。イルカを黙らせたくて。これ以上、苦しめたくなくて。
カカシはひざまずいた。
「そんなこと……思ってないよ」
視界をさえぎっている額宛てを、剥ぐようにして外した。イルカの顔が見たかった。両の眼で、しっかりと。
「おもちゃだなんて、思ったことない。思うわけないじゃないか。そりゃ、あんたにはひどいことしたけど……」
いまさらなにを言っても、事実は変わらない。でも、これだけは伝えたかった。どんなときも、自分が求めていたのはイルカなのだと。ほかのだれでもない。イルカだから、失いたくなかったのだ。
そのためなら、自分などどうでもよかった。鬼にも蛇にもなる。憎まれ、さげすまれ、嫌悪されてもいい。イルカが生きていてくれるなら。
カカシはまっすぐに、イルカの双眸を見つめた。
「俺は、あんたに生きててほしかった。時限印なんていうばかばかしいもののために、死んでほしくなかったんだよ!」
願ったのは、ひとつだけ。
あんたの命。ただ、それだけ。
ぴくり、とイルカの体が震えた。目が大きく見開かれる。唇が何事か呟くように、わずかに動いた。
視線が空をさまよい、やがて戻ってきた。カカシに向けられる、黒い瞳。
「……イルカ?」
声に出して、呼んでみた。もう呼ぶことなどないと思っていた名を。
イルカの目が、こころなしか潤んでいる。どうしたのだろう。また自分はこの人を傷つけてしまったのか。
そう思ったとき。
イルカの手がそっとカカシの頬にのばされた。指先がわずかに触れる。
その瞬間、なにかがカカシの中に流れ込んできた。いままで感じたことのない、純粋な「気」。
思わず、その手を掴んだ。確かめたくて。逃がしたくなくて。
いくぶん細くなった手首から、まちがいなくこの人の生きている証が伝わってくる。
「イルカ……」
もう一度、呼んだ。こらえきれずに。
そのとき、イルカの体がふらりと傾いだ。上体がカカシに預けられる。
「え……」
なにが起こったのか、わからなかった。イルカのまっすぐな黒髪がカカシの頬にかかる。
「あなただ」
腕の中で、イルカが言った。
「……あなただったんだ」
はじめて聞く声だった。作られたものではない。心の底からあふれた言葉。「人形」ではなく、「人間」の。
イルカはそろそろと顔を上げた。
「やっと、わかった」
微笑。まるく、やわらかな。
カカシは目を見張った。これは、あのときと同じだ。クナイを喉元につきつけたときの、穏やかなやさしい顔。
イルカは死ねないことに苦しんでいた。生きることになんの意味も見出せず、ただ時間の過ぎるのを眺めているような日々。そんな彼が、安堵と充足の笑みを浮かべたのが、おのれの死を確信したときだったのだ。
カカシはイルカを、強く抱きしめた。
あまりにもイルカがしあわせそうで。このまま死神に連れていかれるのではないかと、埒もないことを考えてしまった。
「……痛い」
耳元で、イルカが訴えた。あわてて腕をゆるめる。イルカは体を引いた。羽織っただけの夜着の胸元や裾が乱れて、肌が顕になっている。
「帯を……」
立ち上がりかけたカカシの手を、今度はイルカが掴んだ。
「要りません」
「え?」
「いまは……要りません」
その言葉の意味を解するのに、数瞬かかった。いいのだろうか。本当に。
そんな迷いが脳裡をかすめた。が、自棄になっていた先刻とは、明らかに違う。それは十分にわかった。イルカの心の中でなにかしらの変化があったことも。
カカシはイルカの前にすわり、夜着の襟に手をかけた。するりとそれを落とし、右腕に触れる。
「きれいに治りましたね」
「はい」
「少し、待っててもらえますか」
「……はい」
立ち上がり、玄関に向かって厳重に結界を張る。そして。
カカシは部屋の明かりを消した。
もう、印を探す必要はない。ほかのことを考える必要も。
ただ、この人を感じたかった。唇で、舌で、指で、掌で。耐え切れずに漏れる声も、汗の匂いも、なにもかもを。
夢だと思っていた。ずっと、こんなことは夢でしかないのだと。あんな方法でこの人をふみにじってしまったから、もう二度と、この手にいだくことはできないとあきらめていた。
それが、いま、ここにある。
「……」
声が求めている。熱い息。カカシはイルカの中に進んだ。信じられない。これが、イルカなのか。
深い部分で繋がっていると感じる。それはむろん、体だけではなく。
「イルカ……」
思いをこめて、愛しい名を呼ぶ。イルカの唇が、それに応えてカカシの唇を激しく吸った。
二十三の章へ続く