『寒椿』
byつう
二十一の章
だれもいなくなった部屋は、ひどく寒かった。
寒くて、広くて、空虚で。
こんな気持ちになったことはない。ここで暮らしはじめてから、ずっと自分はひとりだったのに。
気づきたくはなかった。ひとりであることに。ひとりになってしまったことに。
『生きろ』
耳に残る言葉。
『生きろ』
心を縛る言葉。
死にたいなんて、思ったことはない。でも。
生きたいとも思わなかった。ずっと、ずっと。ただ命を繋いでいただけで。
そうだ。生きているという意識もないままに、自分は時を過ごしてきた。カカシと関わりを持つまでは。
あの男の笑顔が、声が、触れてくる手が、嫌でも自分がまだこの世に存在していることを思い知らせる。体だけでなく、心までも荒々しく押し広げて。
封じたはずの感情がこじ開けられ、掴み出され、血を流す。どうして自分は、カカシに対してはこんなに無防備になってしまうのだろう。ずたずたになることがわかっていながら。
体が小刻みに震える。
寒い。寒い。どうしようもなく。
だれか……。
思わず、呼んだ。側にいてほしかった。ただ、温めてほしくて。
だれか、ここにいて。
カチャリ。
ドアの開く音。
アスマが戻ってきたのだろうか。イルカはゆっくりと顔を上げた。
「え……」
なぜだ。
イルカは目を疑った。なぜ、この男が……。
三和土には、銀髪の上忍がいた。
「上がりますよ」
カカシは履物を脱いで、板の間に上がった。まっすぐにイルカの前まで来て、腕を取る。
「まだ、こんな格好をして……風邪をひきますよ」
言い返す暇もなく、抱き上げられた。イルカとて成人男子である。決して小柄な方ではないのだが、カカシはいとも簡単にイルカを夜具に運んだ。
「具合が悪いのなら、横になってなくちゃ駄目です」
カカシは枕元の薬を手にとった。
「もう、飲みましたか」
「……いいえ」
「じゃ、水を持ってきます」
ふたたび立ち上がり、台所へ向かう。イルカは呆然として、カカシを見つめた。
いったい、どういうつもりだ。さっきは自分とアスマのことを早合点して、早々に帰っていったくせに。
「はい、どうぞ」
水が差し出される。イルカは無言で、それを受け取った。
処方通りに薬を飲む。コップを畳の上に置くと、カカシがまた律儀にそれを流し台まで持っていった。
ばしゃばしゃと、水音が聞こえる。どうやら、先刻使った椀や箸などとともにコップを洗っているらしい。
そういえば、洗い物が流し台にたまっているのは嫌だと言っていた。上忍なのだから雇人でも置けばいいのに、カカシは自分で家事全般をやっている。
「寝てなくていいんですか?」
手を拭きながら、カカシが言った。イルカはカカシをにらみつけた。
「なんの用です」
「え?」
「おれに、薬を飲ませに来たわけじゃないでしょう。なんの用ですか」
声が震えているのが自分でもわかった。なにかに操られるかのように、言葉が飛び出す。
「前のようにするつもりなら、さっさと結界を張ったらどうです。でも、言っておきますが、おれはアスマ隊長と寝てませんよ。おもちゃを取られた子供みたいな真似はやめてください」
「……おもちゃ?」
カカシの顔色が変わった。藍色の隻眼が見開かれる。
「違うとでも言うんですか」
止まらない。もう、止められなかった。
だれか、と呼んだ。声にならない叫び。あのとき、たしかに自分はこの男の影を求めていた。
玄関に足を踏み入れもせずに背を向けた、この男の。
会いたくない。けれど、近くに感じたい。相反する感情が心を切り刻む。
「時限印さえ見つけたら、あとはどうでもよかったんでしょう。いまさら、惜しくなったんですか。都合のいいおもちゃを手離すのが……」
ピシッ、と鋭い音がした。
頬に、熱い痛み。
「あ……」
カカシが、じっと右手を見つめている。自分がなにをしたのか、わかっていないようだった。
つらそうな顔。殴られたのは、こっちの方なのに。
カカシはぐっと拳を握った。ゆっくりと手を下ろし、ひざをつく。
「そんなこと……思ってないよ」
むしり取るように、額宛てを外す。銀色の髪がぱさりと揺れて、真紅の瞳が現れた。
「おもちゃだなんて、思ったことない。思うわけないじゃないか。そりゃ、あんたにはひどいことしたけど……」
ふた色の双眸が、まっすぐに向けられた。
「俺は、あんたに生きててほしかった。時限印なんていうばかばかしいもののために、死んでほしくなかったんだよ!」
閃光。
なにかが、イルカの脳裡を突き抜けた。
生きて。
……生きて?
『生きろ』
耳に残る言葉。最後の言葉。心を縛る言葉……。
否。
縛っていたのは、自分。自分で自分に、軛を与えていたのだ。
ずっと、思い違いをしていた。
両親は、「生きろ」と言ったのだ。「死ぬな」と言ったのではない。
ただ命を永らえるだけではなく、見て、聞いて、感じて「生きろ」と。
どうしていままで、わからなかったのだろう。こんな簡単なことが。
ずっと心を閉ざしていた。なにも見ず、なにも聞かず、なにも受け入れず。そうやってただ、流されてきた。
「……イルカ?」
声。自分の名を呼ぶ……。
頭の中で、その声が木霊した。何度も、何度も。
ああ、これは、あのときの声だ。眠りの中で、自分を包んでくれたやさしい声。
イルカははじめて、カカシの顔を見たような気がした。この男は、こんな顔をしていただろうか。
おずおずと手をのばす。左頬に指先が触れた瞬間、カカシが手首を掴んだ。
体温が、流れ込む。氷のようだった心に。
「イルカ……」
声に導かれるまま、イルカはカカシの胸に上体を預けた。
二十二の章へ続く