『寒椿』


byつう

二十の章

 すぐに返事がなかったので、おかしいとは思った。
 具合が悪くなって早退したというからには、家にいるはずなのに。不審を抱きつつ、ふたたび戸を叩く。
 扉を開けたのは、髭面の同僚だった。奥には乱れた夜具。そして、素肌に夜着を羽織っただけのイルカ。
 アスマがイルカに執心しているのは知っていた。かつての部下。印の一件から、ずっと側で見守ってきたのだろう。万一のときは、自らイルカを手にかける覚悟で。
 なるほど。こういうことになっていたわけか。べつに不思議ではないが。
 カカシは踵を返した。アスマがいるなら、心配はない。自分などがしゃしゃり出なくても。
 いま来た道を、ずんずん歩く。うしろから足音が迫ってきた。
「おい、カカシ」
 アスマが肩を掴んだ。カカシは体を返して、その手を払った。隻眼がぎらりと光る。
「恋人ほっといて、いいの」
「恋人?」
 アスマは首をかしげた。
「なに馬鹿なこと言ってんだ、おまえ。あいつはおまえの……その、なんだ。コレだろうが」
 小指を立てかけて、そこでまた首をかしげる。
「ありゃ、これじゃ女か。いや、でも、こっちじゃねえし……」
 真剣な顔をして、手を見つめている。
 どっちでもいいよ。そんなもん。カカシはため息をついた。
「さっさと帰ればー? もう邪魔しないよ」
「だから、それが誤解だって」
「へーえ。誤解ねえ」
 藍色の目が細くなる。
「寝間着剥がして、よろしくやってたんじゃねえの」
「ありゃ、粥こぼして着替えてたんだよ」
「都合よくこぼれるもんだねー」
「いいかげんにしろよ」
 声が、一段と低くなった。
「ガキみたいなこと抜かすんじゃねえ。だいたい、おまえが不甲斐ないからこんなことになるんだよ」
「どういうことよ」
「あいつ、また前と同じ状態になってる」
「同じ状態?」
 カカシの隻眼が見開かれた。やはり、食事を摂っていなかったのか。
「この二、三日は栄養剤もろくに口にしてないようだぜ。さっきは粥を食べるのにも苦労してたし」
 印を消滅させた直後、なるべく早く常食が摂れるようにと、研究所からの特別食や薬剤の配送を停止させたのが仇になったということか。カカシは自分の判断の甘さを痛感した。
 もう少し、一緒にいればよかった。無理にでも休暇を延長して、イルカが復調するまで、あの家に置いておくべきだった。
「おまえ、なんであいつから離れた」
 真剣なまなざしで、アスマが訊いた。
 なぜ? そんなこと、決まっている。自分はもう、あの人には必要ないと思ったから。
 印は切除した。傷もふさがった。食事も、少しずつではあったが食べられるようになってきた。これ以上、自分が側にいても益はない。そう思ったから。
「惚れてんだろ」
「ああ」
「だったら……」
「だからって、いまさら愛の告白ってわけにもいかないでしょうが」
 自嘲ぎみに、言う。
 拒まないのをいいことに、関係を強制して、さんざんいたぶって。自分の所業は、自分がいちばんよくわかっている。
「知らねえようだから言っとくがな」
 アスマが苦虫を噛み潰したような顔で、続けた。
「あいつがまっとうなもん食えなくなったのは、なにも時限印のせいじゃねえ。九尾のときから、ずっとだよ」
「え……」
「目の前で二親ともやられちまったからな。ほかにも、知り合いやダチがたくさん……。まあ、そういう目に遭ったのは、あいつだけじゃねえが」
 そうだ。あの夜。
 里のあちこちで、同じような惨劇は起こった。
 逃げ惑う人々。叫び声。悲鳴。
 多くの命が失われ、その中に彼もいた。太陽のような髪と、明るい空の瞳。見る者すべてを幸福にするかのような笑顔を持った、四代目火影。
 彼が修羅となって戦った、最初で最後の夜。自分はなにもできなかった。否、できることはすべてして、できないことでも、なんとかしようとしたけれど。
 それでも、彼を失ってしまった。
『じゃあ、またあとで』
 最後の言葉が蘇る。血に濡れた手で、しっかりと抱きしめてくれた彼の。
 あの日、イルカも大切なものを失った。そしてそれ以来、心を閉ざしてきたのだとしたら、たしかに印が消滅しただけではなにも解決しないだろう。
「あいつはなあ、カカシ。おまえにだけ、反応するんだよ」
 煙草をくわえながら、アスマは言った。
「反応?」
「そ。良くも悪くも、な。いつぞやのビンタの一件だって、そうだ」
 ため息とともに、紫煙を吐き出す。
「ずーっと人形みたいに暮らしてたやつが、おまえにだけは生身で反応した。だからもう、人形に戻ってほしくないね」
 『人形』
 その言葉が、カカシの胸にずしりと響いた。たしかに、そうだ。自分もそう思っていた。はじめて会ったときから、この人は精密に組み立てられた仕掛け人形のようだ、と。
 そんなイルカが、感情を垣間見せてくれるのがうれしかった。たとえそれが怒りであっても。イルカの表情が変わるのを見るのが楽しくて。
 それが、印の一件でそんな余裕はなくなってしまった。ただ、イルカを助けたい。生きていてほしい。それだけで精一杯だった。
 もう一度、最初から始めてもいいのだろうか。はたして、そんなことが許されるのか。
「ま、俺はもう帰るわ」
 ぽん、とひとつ、肩を叩く。
「あとは頼む」
 カカシの返事を待たず、アスマはすたすたと川沿いの道を歩いていった。




二十一の章へ続く

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