『寒椿』


byつう

二の章

 いつも、そこだけ空気が違っていた。
 それは例えるなら、死の縁から帰ってきた者の現世に対する一歩控えた姿勢にも思えたし、逆に常に死を意識して、日々という不安定な石を積み上げているようにも思えた。
 うみのイルカという男のまとう空気は、無意識かつ無作為の結界のようだった。




 カカシはずっと、イルカのことを火影が里に配置している「手」のひとりかと思っていた。
 忍の里もほかの村や荘園と変わりはない。上層部の意向に盲目的に従う者もいれば、反感を抱く者もいる。三代目火影は、反対勢力を力づくで封じるほど強権的な長ではなかった。が、ときには有無を言わさず切り捨てねばならないこともある。
 そういう事態に陥ったとき、要らぬ混乱を避けるために前もって情報を集めたり、根回しをしたりするのが「手」の仕事だった。
 「手」は火影の直属である。本来なら諜報局の領分であるが、こと里の内部に関しては、「手」が文字通り一手に引き受けている。
 実際に、どこでどんな活動をしているのかはわからない。なにしろ、木の葉の忍が木の葉の忍の動静を調べるのである。身内をスパイするようなものだから、「手」の正体は極秘中の極秘とされた。
 もっとも、上忍ともなれば、任務中に「手」と接触する機会もある。カカシも過去に、何人かの「手」と連携して仕事をしたことがあった。
 はじめてイルカに会ったとき、直感的に彼らと同じだと思った。他人との距離の取り方が、独特なのだ。
 イルカは、ときには火影の秘書のようなこともやっていて、出入りが制限されている奥殿の文庫まで入ることが許されていた。
 これで、決まりだ。カカシは思った。イルカは火影の子飼いの「手」で、単調な事務の仕事や、アカデミーの教師としてし子供たちの相手をしながら、なんらかの工作が必要になったときのために足場を築いているのだろう。そう納得しかけていたころ。
 とある任務を火影から言い渡されたカカシは、「手」とのつなぎを指示された。
「どうせなら、あの人がいいなあ、俺」
 そう言ってイルカを名指ししたカカシに、火影は片頬だけをくつくつと震わせて笑った。
「あれは、『手』ではない」
「またまたー。冗談はよしましょうよ、三代目。俺、一回、あの人とやりたいんですよー」
「その物言いは、好かぬ」
「はーい、すみません。でも、俺、本気ですから」
「『手』ではないと言うておろうが。おぬしもしつこいのう」
「へ、じゃあ、ほんとにほんと?」
「まことじゃ」
 火影は断言した。
「あれが中忍になったばかりのころ、余所でそのような仕事をさせたことはあったがの」
 イルカが中忍になったのは、十六のときと聞く。とすれば、自分が暗部にいた頃、イルカは間者として諸国に赴いていたのか。
「だったら、なんでいまは……」
 よほどひどい失敗でもしたのだろうか。しかし、それなら火影がいまだに側近くに置いているはずはない。
 火影は多くを語らなかった。ただ「任にあらずと判じた」とだけ告げて、そのときはべつの「手」を使った。
 その後。
 ナルトたちの指導教官となったカカシのもとに、イルカはやってきた。
「あの子たちをよろしくお願いします」
 イルカは真摯な眼差しで、言った。
 ナルトもサスケも、その肩にとてつもない重荷を背負っている。そのふたりと同じチームになったサクラも然り。だからこそ、火影もカカシに彼らを託したのだろう。
「うーん。よろしくって言われても、どうよろしくしたらいいのかわからないんですが」
 あまりにもまっすぐなイルカの視線に、カカシはばつが悪そうに笑った。
「まあ、俺にできることは、します」
「それなら、安心です」
「……安心、ですか」
「はい。はたけ上忍は、木の葉を代表する忍です。あなたが持てる力のすべてを注いであの子たちを育ててくれるなら、安心です」
 要するに、手を抜くなってことか。
 カカシは苦笑した。言ってくれるねえ、この人は。こんな人が、どうしていまだに中忍なんだろう。頭は悪くなさそうだし、体もきっちり鍛えてあるし、間者をしていたぐらいだから、それなりに術も会得しているだろうに。
「はたけ上忍?」
 訝しげに、イルカは訊いた。カカシは思考を中断した。いま考えても答えは出ない。とりあえず保留にしておこう。
「あー、すみません。そんなにすんなり信頼してもらえると、なんだか照れますね」
「里の者は皆、あなたを信頼していますよ」
「ですかねえ。恐がられてるのは、わかりますけど」
「それは、はたけ上忍に力があるからです」
「はあ。ものは考えようですけど……ところで、イルカ先生」
「はい」
「俺のことは、カカシでいいですよ」
 ナルトたちには名前で呼ばれているので、「はたけ上忍」と言われるとどうも違和感がある。
「しかし、おれは中忍ですし……」
「ふたりとも、あいつらの『先生』じゃないですか。同僚みたいなもんでしょ」
「職種は同じでも、あなたは役付きでおれは平ですよ」
「固苦しく考えないで。俺がいいって言ってるんだから、いいんです。なんなら、上忍命令ってことにしましょうか?」
 たかが呼び方ひとつのために命令書を書くのはご免だが、これぐらい言っておけばこの男も承知するだろう。
「……わかりました」
 思惑通り、イルカは首を縦に振った。
 それが、ふたりが個人的な会話を交わした最初。




 カカシはイルカの腕を掴んだまま、事務局を出てアカデミーの別棟に向かった。普段の授業が行なわれる学び舎の西側にあるこの棟は、おもに屋内演習や薬品や爆発物製造の実験などに使われている。
「今日は、こっち、だーれもいないんですよ」
 広い空き教室の中で、カカシは言った。
「邪魔は入らないというわけですね」
 抑揚のない口調で、イルカは言った。
「そーゆーことです」
 カカシはイルカから手を離して、にんまりと笑った。
「ふたりきりに、なりたかったんで」
「自分がなにをしたか、よくわかっています」
 イルカは床に正座した。その顔にはなんの表情も浮かんでいない。
「ご処分を」
 黒い瞳が、床の一点を見つめていた。きっちりと背筋をのばし、微動だにしない。
 まるで、人形のようだった。決められた動作だけをする、機械仕掛けの人形。
 以前から思っていた。この人の心はどこにあるのだろう。思考の存在はわかるが、感情の流れが感じられない。
 それが、ほんの少し見えたと思った。先刻、事務局でビンタを食らったとき。あのときはたしかに、イルカの感情はカカシに向けられていたから。
 イルカは制裁を加えられると思っているらしい。それならば……。
「いい度胸ですねえ。上官侮辱罪って、木の葉じゃ親告罪なんで、俺が見逃せばお咎めなしなんですけど」
「見逃してくれるんですか」
 ちろりと、イルカはカカシに目を遣った。冷たい、侮蔑の視線。
 カカシはため息をついた。いやだねえ。へんな誤解しちゃって。なにも、助けてやるから言うことをきけ、なーんて言わないよ。そこまで不自由してないし。
 カカシはクナイを取り出した。
「ま、覚悟はできてるようなんで、通例通りに処理させてもらいましょうか」
 言いながら、喉元にクナイを近づける。
「なにか言い残すことは?」
「ありません」
 ひっそりと、イルカは言った。
 喉にクナイが触れる。イルカはカカシを見上げた。黒い瞳に、自分が映っている。カカシは手を止めた。
 なんだ。これは。
 殺されようとしているというのに、この穏やかな顔はなんだ。さっきまでの能面のような顔とは正反対だ。やさしい、血の通った、あたたかな表情。
 死に対する恐れも怯えも、悔しさも未練も、なにもない。それどころか、安心しきっているようだ。
 死が目の前に迫っているというのに、どうしてこんな顔ができるのだろう。
 カカシはさっと、身を引いた。
「やーめた」
 イルカの顔が、途端に曇った。
 いかにも落胆したような、悔しそうな表情だ。カカシはクナイを納めて、ひざをついた。冷たい光を宿した黒眼を見据えて、言う。
「死にたがってるやつを殺してやるほど、俺は親切じゃないんです」
「……死にたいなんて、思ってませんよ」
「へーえ、そりゃよかった」
「よかった?」
 イルカは怪訝な顔をした。
「あんた、面白いんだもん。簡単に死なれちゃ、もったいないですから」
 カカシは立ち上がった。
「これからも、いろいろ、楽しませてもらいますねー」
「おれは、あなたを楽しませる気はありません」
「いいんですよ。あんたはなにもしなくて。俺がやりたいときに、やりたいようにして楽しみますから」
 聞きようによっては限りなく不穏な台詞だ。イルカは唇をぎゅっと結んで、カカシをにらみつけている。
 視線で人が殺せたらいいのにね。
 心の中でそう呟いて、カカシはその場をあとにした。




三の章へ続く

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